解説「菩薩の生き方」第五回(2)
◎二つの柱
皆さんにもよく言ってるように、修行にはいろんな道、いろんなかたちがある。で、皆さんに一番わたしがお勧めするのは、やっぱりバクティヨーガと菩薩道。で、この後者の菩薩道といった場合に、実際には菩薩道っていうのは細かく言えばいろんな要素がある。まあ、それは例えば『菩薩道の真髄』とか読めばいろんなことが書いてあるね。しかし、その中心点というかその肝となるものは、もちろんこの菩提心なんですね。これは決して忘れてはいけない。
で、もう一つ言うならば今言ったバクティヨーガね。バクティヨーガにもいろんな要素があるわけですけども、バクティヨーガは当然一つの中心点になるのは、神への完全なる自己の明け渡しっていうかな、これがまず中心点に来る。もちろん、明け渡し、で、何をやるのかに関しては、それは今度は若干それぞれの道が分かれるわけだけど。
バクティに関しては皆さんにはここでは特に、いわゆるダーシャ・バクティ――しもべのバクティがまず基礎となりますよと言っていますね。ですからこのしもべのバクティが好きな人はそれ一本で行ってもいいし、あるいはそうじゃないいろんなパターンのバクティのかたちでもいいんですけども、どちらにしろ、このバクティの道においては、衆生というよりは唯一なるこの宇宙の絶対なる完全なるただお一人の絶対者に対して心を向け、すべてを明け渡し、で、それのみを自分の帰依処とすると。で、もちろん、細かく言えば、それは現実的には、自分の目の前に現われた師や、肉体を持った聖者っていうものを通して、至高者にすべてを捧げるっていうことをやるわけですけども。これがまあ、バクティの一つの肝になると。
で、実際には、細かいことを言ってしまうと、このバクティの道、それから菩薩道の道っていうのは、実際は同じです。それは視点のレベルの違いなんだね。これはちょうどブラフマーナンダの言葉を借りると、ブラフマーナンダは、自分が――彼のね、ブラフマーナンダの意識が高レベルにあるときは、もうすべてが神に見えると。もうこの世には神しかいないってなると。だからそのときには――もちろんブラフマーナンダはラーマクリシュナ・ミッションのリーダーだったわけだけど、わたしが信者を救うとか、苦しむ者を救うとかそういう発想は全然出てこないと。っていうのは、この世には神しかいないっていうふうに見えてしまうから。だから、「おお、神よ、おお、神よ!」っていう感じにしかならないんですね。しかし、彼の意識レベルがその境地からこの人間世界にちょっと降りてくると、神ではなくて、苦しんでる衆生が見えると。そこでとても心に強い慈悲の思いが湧いて、一生懸命頑張ってみんなを助けてやりたいっていう気持ちが出てくる、というふうに、ブラフマーナンダは言ってるんだね。
で、これは、今の話聞いたらわかるように、意識レベルの違い。つまりわれわれの意識レベルが高くなると、すべて神に見える。意識レベルが少し下がると、そうではない苦しむ衆生っていうのが見えてくる。だから救わなきゃいけないっていう感じになる。つまり意識レベルが下がった状態のわれわれの実践項目が、菩薩道なんだね。
ただこれは、意識レベルが下がった状態って言っても、それはレベルが低いっていうことを言ってるんじゃないんです。ちょっと難しいけどね。菩薩道はレベルが低いって言ってるんではない。そうじゃなくて、われわれはこの世に生きてるときっていうのは、当然、ある程度みんなと意識を合わせつつ、あるいはある程度このリーラーの中での自分の役割を演じつつ生きるわけですね。そのレベルっていうのは当然、苦しんでる多くの衆生がいるっていう、なんていうかな、状況設定があるわけですね。で、この状況にもし、愛ある魂が置かれたら、当然、救わなきゃいけないっていう気持ちになるはずなんだね。ならなきゃいけないっていうか。みんなの苦悩が見えてるのに、「みんな神だから」とか言ってたら、それは(笑)、それはただ慈悲がないっていう感じになる。で、そうじゃなくてわれわれがほんとに神の祝福によって意識がグッと引き上げられたときに、みんなが自然に神に見えてくるわけですけど。そうじゃない、まだみんながほんとの意味で神に見えていないと。みんなの苦しみが見えると。これは当然、その状況において適用しなきゃいけない法は菩薩道なんだね。
だから、この二本の柱、これは、そうですね、ここでわたしが皆さんにお勧めしていることです。例えばいろんな聖者がいたとしてね、いろんな師がいたとして、当然いろんなパターンで教えを説くかもしれない。でも、わたしが例えば皆さんにアドバイスをするとしたら、この二本の柱――つまり、神にすべてを明け渡すバクティの柱と、それから衆生のために悟りを得ようと、衆生を救えるのは自分しかいないんだと。縁ある衆生を救えるのは自分しかいないんだから自分がもう極限に頑張ろうと。そのためにこの人生を使いきろうという菩薩道ね。この二本の柱で行くしかないと。
例えば、そうだな、ヴィヴェーカーナンダっていう方は、「ジュニャーナヨーガ、ラージャヨーガ、カルマヨーガ、バクティヨーガ――これらを総合的にやりなさい」って言ってるけども、ただヴィヴェーカーナンダの実際に言ってることや、あるいは歩いた人生を見ると、まあ、わたしが今言ったバクティの世界、そして菩薩道、プラス、ジュニャーナヨーガって感じですよね。ジュニャーナヨーガ的な分析や、あるいは教えもたくさん説いてると。特に前半はジュニャーナヨーガプラス菩薩道っていう感じだね。
最初布教に出たときは、多分みんな理解できないと思ったんでしょう。あまりバクティ的なとこは打ち出さない。非常に理性的に論理的に法を説き、で、かつ自分の人生っていうかな――は、完全にもう菩薩道です。つまりわれわれは悟りなんかいらないと。ラーマクリシュナの弟子たちは悟りなんか求めないと。われわれは、ただ衆生のために何百回でも死のうと。ね。こういうことを兄弟弟子たちに言って、鼓舞して、自分もみんなを救うために人生を使ったわけですね。で、その教えの内容っていうか、そのみんなを引き上げる内容としては、非常にジュニャーナ的なのが多いっていうか。で、まあ後半はジュニャーナヨーガではなくちょっとバクティヨーガになっていくわけだけど。まあ、だからヴィヴェーカーナンダの道っていうのはちょっと近いけどね。
あるいは例えば、この間も話に出ましたけど、ラマナ・マハルシなんかはもうジュニャーナヨーガ一本です。まあ、それはそれでその道だったんだと思う。
そのようにいろんな流れがあるわけですけども、もう一回言いますけども、わたしが勧めるのは、神にすべてを明け渡すバクティヨーガ。あるいはそれから付随してしもべの道であるとか、さまざまな要素があるバクティヨーガの道、そしてもう一つが、衆生のために修行しようと、衆生のために人生を使おうと――菩薩道ね。
で、今ずーっと、何度も言ってますが、これ、なんなのかっていうと、さっきからこれを二本の柱って言ってますが、つまり、ほんとに柱なんです。柱。柱っていうのはつまり――例えばですよ、皆さんは修行して……ちょっと現世のことは置いといて、修行して、日々いろんなことをやろうとするよね。例えば、「わたしは心にこういうけがれがあるから、やっぱりこれはこうしなきゃいけませんね」とか。あるいは、「やっぱりこういう要素を身に付けよう」と思って修行するとかね。あるいは例えば、まあ、もうちょっと具体的に言うと、「ああ、もうちょっとわたしは慈悲の心を強めよう」とか、あるいは「ちょっと忍耐力がないからもうちょっと忍耐力を付けよう」とか。あるいは「集中力がないからもっと集中力を付けよう」とか。もちろんやるべきことっていっぱいあるよね。しかし、それ全部なんのためにやってるのっていうのがあるよね。つまり、それがほんとの、なんていうか、中心点というか。
例えば今の話で言ったらさ、われわれは別に、集中力を付けるために修行してるわけじゃないよね。初心者ではそういう人いてもいいかもしれない。例えばカイラスに無料体験来ました――「なんでヨーガしたいんですか?」「集中力を付けたいんです」。ね(笑)。これは別にいいかもしれない(笑)。でもほんとに道の流れに入って、まあ、さっきわたしが言ったようなね、バクティや菩薩道の道に本格的に入るとしたら、集中力を付けるとか、あるいは心を浄化するとか、全部手段にすぎない。じゃあその目的はなんなんだと。あるいは、その本質的な柱となるものはなんなんだと。それが――これはだから、もう一回言いますけども、ほんとはいろんな修行者でいろいろあっていいんですけども、皆さんにわたしがお勧めするのは、バクティにおける、いかに――じゃあ、もうちょっと噛み砕いて言うと――いかに神のしもべとなるか。いかに神に投げ出した、あるいは神の愛を完全に信じきれる、まあ、あるいは絶対なる、なんの不純物もない、神への信や帰依を確定させられるか――これが一つであると。
で、もう一つは、いかにこの人生全体を使って衆生のために自分の修行を進められるか。まあもしくは、ある段階からは、実際にみんなの救済っていうかな、幸福になるためのお手伝いを実際にできるかどうか。このためにどれだけ自分の人生の一瞬一秒を惜しんで、二十四時間、そして一生を使えるかどうか。これが菩薩道ですね。で、この二つの柱のみが、ただこの人生で大事なことなんだと。
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