解説「菩薩の生き方」第三回(1)
2011年11月2日
解説「菩薩の生き方」第三回
(勉強会前に『3Dアニメ・ラーマーヤナ』を鑑賞)
まず、今見た『ラーマーヤナ』は、最後のパートですけどね。だいたい全部で一時間半くらいの作品に『ラーマーヤナ』を全部押し込めてるので、まあ、ダイジェスト版みたいな感じですね。『ラーマーヤナ』っていうのは、なんていうかな、今観た内容は、面白い戦いの物語みたいな感じでしたが、この『ラーマーヤナ』、それから『ラーマーヤナ』よりもさらに長い『マハーバーラタ』っていうのがあって、この二つは、いつも言うように、インドの古典であって、世界中のいろんな物語の雛形になったっていわれてるんですね。ただし、その深い意味合いっていうのはあまり理解されてないっていうかな。
わたしも以前は――まあ『マハーバーラタ』はね、いろんな教訓が出てくるんですけれども、『ラーマーヤナ』は、お姫様シーターを救うためにラーマが、いろんな仲間と共に悪魔を倒しに行くと。で、地上の魔族を全滅させるっていう単純なストーリーかと思ってたんですけども、実際には非常に、その一つ一つの場面場面において、ものすごく深い意味が含まれてるんだね。いろんな教訓が含まれてる。
ただまあ、このアニメを作ったのは誰かわかんないけども、そういう深い部分は置いといてね、表面的な全体の流れだけを追ったようなアニメですね。その全体の流れは流れとして頭に入れといて、その一つ一つの場面が示すいろんな深遠な意味をね、しっかり学んでほしいと思います。
例えばさっき歌った「神のシナリオ」っていう歌ね。これなんかもそうなわけだけど、ここでも歌われてるように――まあ『ラーマーヤナ』のテーマっていろんな複雑なものがあるんですけども――一つはまさにこの歌みたいに、例えば悪魔にさらわれるシーター、ね、あるいは、そういった悪事を行なうラーヴァナもそうなんだけど――もちろんラーマ自身もそうですけども、全部この神のシナリオをわかった上でやってるんだね(笑)。うん。単純にそういういろんな不幸な目に遭って、ね、追放されて、さらわれて、で、戦わざるを得なくなって、っていう話ではなくてね。うん。全部自分の使命っていうのをわかった上でやってるんだね。
しかも、なんていうかな、この歌にも書いてあるけど、例えば『アディヤートマ・ラーマーヤナ』とかを見ると、例えばラーマが最初にね、国を追放される場面があるんですが、それを聞いた奥さんのシーターが「歓喜した」って書いてあるんだね。うん。「歓喜した」って、それ変でしょ、普通は。普通のっていうか、よく知られてる『ラーマーヤナ』にはそう書いていない。つまり普通は、つまり、ねえ、わが夫が王様になろうとしてたのに、不当な言い掛かりによって、不当な事情によって国を追われてしまうと。「なんてことなんだ!」って悲しんで、「どうかわたしも連れてってください!」みたいな感じなんだよね、普通はね。でもその深い意味を説いた『アディヤートマ・ラーマーヤナ』を見ると、「ラーマが追放されると聞いてシーターは歓喜した」って書いてあるね(笑)。歓喜して、気高く堂々と言うんだね。「さあ、行きましょう!」と。ね(笑)。つまりもう最初から、自分はそのために生まれてきたと。ね。「ついに来た!」みたいな感じなんだね(笑)。うん。全部わかった上で追放され、わかった上でさらわれて、で、わかった上で、その悲劇のヒロインを演じてるんだね。
ラーヴァナも同じで、ラーマを倒そうというときに、賢い部下とかがいてね、ちょっと反対されるんだね。「あのラーマは至高者の化身ですから、やめといた方がいいですよ」と(笑)。「破滅しますよ」と。しかしラーヴァナは、この歌にもあるように、「そんなのはわかっている」と。ね。「彼は完全なる至高者である」と。「しかし普通のバクティ、普通の修行では、至高者にはたどり着けない」と。「よってわたしは、この与えられた、至高者に敵対するという使命によって、至高者に近づくんだ」って言ってるんだね。これがその大悪人・大悪党の、つまり悪役のラーヴァナの言葉として載ってるんだね(笑)。みんな深い部分で、なんていうかな――この歌詞でも「笑顔で」って書いてあるけども、悲壮感すらないんだね。うん。つまり「ああ! カルマだから!」とか、あるいは「ああ……神の使命か……」とかそんなんじゃなくて(笑)、もう喜びを持って、「さあ! わたしはこれをやりましょう!」と。
これは、ラーマクリシュナの弟子のギリシュ・チャンドラゴーシュなんかにも同じようなものを感じるね。ギリシュも自分の人生っていうものを、あるいは自分の師ラーマクリシュナと、その自分を含む弟子たちの人生っていうのを、完全に神の計画、遊戯の一つとしてとらえていて、まあ、逆に言うと、重くないっていうかな、あるいはネチネチしてないっていうか。うん。この目の前に見えるいろんな現象にあまりとらわれすぎてないんだね。もうちょっと高い、神の意思としてこの人生を見てるから、ちっちゃなことはどうでもいいじゃないですかと。ね(笑)。あるいは、エゴのことはどうでもいいじゃないですかと。うん。ただ自分が――まあまさに演劇みたいな感じなんだけど、自分は与えられた役柄がありますと。この役柄を全力で、全身全霊を込めて演じきるというかな。うん。あるいはその与えられた使命を、与えられた課題を、全力でこなしきることが喜びなんだと。
もう一回言いますよ。悲壮じゃなくて喜びなんです。「ああ! カルマだから……」――これはちょっと悲壮だけど(笑)、じゃなくて、「あ、今生これですね」と。あるいは「今目の前に与えられた、わたしのやるべきことはこれですね」と。それがいかにつらく見えようとも、あるいはいかに表面的に、なんていうかな、重く見えようとも、実際それは喜びでしかない。なぜかというと、この歌にも書かれるように、これはただの――ヴィヴェーカーナンダも言うように――すべてはただの劇であって、で、しかもその劇の作者、そして監督してくださっているのは至高者、神なんだね。だからそれは喜びでしかない。つまりわが愛する至高なる主が、ね、わたしのためのシナリオを書いてくださって、で、その役柄を与えてくれたと。ね。これを喜びを持ってやるんだね。
ただもちろん、ある程度役に入ってるから、そういう感情表現はするんだけども、しかし、はまってはいないんだね。うん。例えば名役者がいるとして、名役者が悲劇の役を演じたとしてもね、例えば、ねえ、家族に死なれたっていうつらい役を「おおー!」って舞台で演じてたとしても、でも根っこは、その人の本質は別に、なんていうか、そこで苦悩はしてないよね(笑)。逆に――「さあ、この多くの人が観てる舞台で、偉大なる脚本家が書いた、偉大なる監督が指揮してくれてるこの舞台でわたしが今演じられることの喜び」っていうのを感じると思うんだね、その名役者っていうのはね。それと同じような感じなんだよね。それと同じような感じで、この人生っていうものを見たらいい。