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インド仏教おぼえがき

 よく質問されるので、仏教教団の流れみたいなものを、本当に簡単に大雑把にですが、おぼえがき程度に書いてみたいと思います。

 お釈迦様はブッダガヤーで悟りを開かれた後、徒歩でヴァラナシへ向かい、サールナートで、かつての苦行者仲間だった五人の修行者に、初めて教えをお説きになりました。

 ヒンドゥー教で最大の聖地といわれるヴァラナシが、仏教においても「初転法輪」の場であるというのは面白いですね。ちなみにブッダガヤーがあるガヤーも、ヒンドゥー教では大きな聖地の一つです。

 五人の修行者のうち、お釈迦様の最初の説法を聞いただけで、コーンダンニャという修行者が、悟りを得ました。お釈迦様の弟子の悟り第一号ですね。

 その後、お釈迦様はこの五人のうち、三人に教えを説いているときは二人が食物を人々に乞いに行き、二人に教えを説いているときには三人が食物を乞いにいくという形で、しばらく修行生活をしていたようです。これが仏教教団の始まりですね。

 その後、この五人以外にも、ヴァラナシを中心に、数十人の者たちが、お釈迦様の下で出家修行者になりました。
 
 そうしてそれぞれにある程度の悟りを得た彼らを、お釈迦様は、各地に布教の旅に送り出したのでした。もちろん、お釈迦様自身も、北インドの各地を徒歩で遊行され、生涯、布教活動を行ない続けました。

 その中には、ヒンドゥー教の他宗派の一群が、まるごとお釈迦様に帰依するようなパターンもあり、お釈迦様の教団はどんどん拡大していきました。

 よく「原始仏教」といいますが、厳密な意味での原始仏教とは、このお釈迦様が生きていたころの仏教でしょうね。
 しかしもちろん、このころは通信手段も交通手段も未発達でしたから、インド各地には、お釈迦様の弟子によって教化され、帰依し、しかしお釈迦様本人には一度も会ったことがないという信者も多くいたと思われます。

 お釈迦様はそのうち、自分の故郷も訪ね、布教し、それによって、多くの者が出家をしました。
 このときの面白いエピソードがあります。お釈迦様は王子様だったわけですが、そのお釈迦様の従兄弟とか親戚とか、まあつまり王族に属するきらびやかな高貴な男たちが、こぞって出家を願い出たわけですが、それとは別に身分の低いウパーリという男も、出家を願い出ました。
 このウパーリは、インドの身分制度の中ではシュードラ(奴隷)に属し、お城では床屋の仕事をしていました。
 お釈迦様は、多くの高貴な男たちが出家を願い出た中で、一番最初に、この奴隷階級の床屋のウパーリを、弟子として受け入れました。
 これにはお釈迦様の計算があったと思われます。なぜなら、お釈迦様の教団においては、ヒンドゥー教のカーストなどの身分は関係なく、早く出家した者ほど、弟子集団の中で上座に置かれるということになっていたからです。
 つまり昨日まで王族として奴隷をこき使っていた者たちが、出家後はそのかつての奴隷を先輩として敬わなければならなくなったわけですから。それによって彼らの王族としての高慢さを打ち砕こうとしたのでしょう。

 その後、お釈迦様は、女性の出家も認めました。これによって、お釈迦様の信者には、四つのパターンができたことになります。
①ビック(男性の出家修行者)
②ビックニー(女性の出家修行者)
③ウパーサカ(男性の在家信者)
④ウパーシカー(女性の在家信者)

 出家修行者は日々瞑想し、遊行し、教えを説き、人々からの托鉢で暮らしていました。在家信者は出家教団に対して、托鉢以外にも、生活必需品や、道場などの布施供養をして功徳を積みました。しかし出家修行者は個人的には財産を持ってはならず、所有が許されたのは、ぼろきれを縫い合わせて作った袈裟と、遊行のための杖と、托鉢のための鉢だけでした。
 出家修行者たちは普段は各地を遊行し、森の中などで暮らしていましたが、インドの雨季の期間だけは、在家信者や親族を頼り、住居に住むことが許されていました。

 
 お釈迦様の死後、ラージャガハ(現ラージギル)において、第一結集が行なわれました。これはお釈迦様の弟子の中で選ばれた五百人の阿羅漢(悟りを得た聖者)が集まり、お釈迦様の侍者として最も多くの説法を聞いていたアーナンダが「このように私は聞いた・・・」とお釈迦様の説法を唱え、持律第一といわれたウパーリが、お釈迦様が制定した種種の戒律を唱え、それを五百人の阿羅漢が認めたものだけが、お釈迦様の教えとしてまとめられていきました。

 このころ、お釈迦様の二大弟子といわれたサーリプッタとモッガラーナはすでに亡くなっていましたので、マハーカッサパという弟子が教団のリーダーとなりました。マハーカッサパの死後はアーナンダがリーダーになったといわれています。

 このころが、第二期原始仏教期といってもいいかもしれません。つまりお釈迦様は亡くなったけど、お釈迦様の直弟子たちがまだ生きており、教団を率いているころですね。

 しかしその後、お釈迦様の直弟子たちもいなくなる時代が来ます。これが第三期原始仏教期といってもいいかもしれません。

 ところで、お釈迦様の時代、文字として紙その他に書かれた経典はなかったといわれています。これは仏教のみならず、当事のインドの宗教界は、口頭で教えが伝えられていたからです。お釈迦様の弟子たちは、その膨大な教えを、すべて暗記していたといいます。

 しかしある時期から、仏教は、その教えを経典として文字に残すようになりました。

 そしてある時期から仏教の出家修行者の中に、様々な見解の相違が生まれるようになりました。絶対的な師であるお釈迦様も、その直の教えを受けた者もすでにいなかったわけですから、それは当然かもしれません。

 そしてその見解の相違により、ついに仏教教団は、いくつにも分裂を繰り返していくようになります。これが部派仏教と呼ばれる時代ですね。

 このように内部分裂を始めた仏教ですが、外的にはどんどんその勢力を延ばして行きます。特にインドを統一したアショーカ王が仏教を庇護したため、仏教は全インドのみならずその周辺諸国へも伝道されていきました。

 このようにして数世紀にわたって仏教の天下が続きましたが、次第に仏教はインドの人々から見放され始めました。それは、もともとなんだかんだ言ってもインドにはヒンドゥー教が根付いているというのもありますが、それよりも、仏教の出家修行者たちが、あまりにマニアックすぎたからかもしれません(笑)。彼らは僧院にこもって様々な教えの哲学的研究に明け暮れ、そのため哲学体系は発達しましたが、それは民衆には関係のないことであり、実際に人々を救う生きた教えは、このころの仏教にはなかったのかもしれません。

 そんな状態に陥っていた仏教教団を内部批判し、僧院にこもってただ哲学的研究や自分だけの修行に明け暮れるより、もっと衆生救済を主眼にしなければいけない、それこそがお釈迦様の教えなのだと主張する「大乗仏教」運動が生じ始めました。
 彼らは自分たちを「ボーディサットヴァ(菩薩)」と呼びました。もともとボーディサットヴァとは、お釈迦様が自分の過去世の話をするときの一人称として使われていた言葉です。つまりまだ仏陀になっていない、修行途上のお釈迦様を「菩薩」と呼んでいたわけですが、大乗の人たちは、自分たちの道こそがお釈迦様の指し示した道であるという自負のもとに、自分たちを菩薩と呼んだのです。
 そして大乗の人たちは、それまでの僧院にこもって研究や修行をする形骸化した出家修行者たちを「小乗(ヒーナヤーナ=劣った乗り物)」と批判し、自分たちを大乗(マハーヤーナ=偉大な乗り物)と読んだわけです。
 それまでの部派仏教の人たちは逆に、大乗の流れを、あれは仏説ではない、といって批判しました。

 ところで、大乗仏教は、決してお釈迦様の原始仏教を批判したわけではありません。この辺が複雑なところです。あくまでもその当事の、形骸化した僧院主義に陥っていた部派仏教の多くを批判したのです。
 そして大乗仏教は、新しいものを作ろうとしたというよりも、お釈迦様の真意をより時代に合わせて解明し実践しようとしたといっていいでしょう。
 もちろん、それが本当にお釈迦様の真意であったかどうかは別問題です。大乗仏教の人たちも、保守派のそれぞれの部派仏教の人たちも、それぞれが自分たちこそお釈迦様の意に沿った真理だと考えていたでしょうから。しかし大乗はより実践的な「生きた仏教」に仏教を戻そうとしたのは事実でしょうね。
 より現実的な問題としては、インドの民衆の仏教離れがあったのでしょう。仏教教団がマニアックな学者僧の集まりと化してしまったがために民衆は離れていった。それを現実的に改革し、人々の目をもう一度仏教のほうに向けさせるのも、大乗仏教の目的だったのかもしれません。

 ちなみに、現在東南アジアに広まっているテーラワーダ(上座部仏教)は、部派仏教の流れの一つであって、テーラワーダ=原始仏教というわけではありません。しかしテーラワーダが伝えるパーリ仏典が、現存する経典の中では最もお釈迦様の生の言葉に近いものが含まれているのは間違いないでしょう。しかしすべてがそうだというわけでもありません。後世の部派仏教の人たちが作った哲学的見解も多く含まれていますし、またお釈迦様の言葉の解釈についても、あくまでもその派がとったひとつの解釈に過ぎないからです。

 大乗仏教のほうは、多くの新しい経典や論書が作られ、多くの有名な聖者や哲学者が現われました。その代表的な人物がナーガールジュナ(龍樹)です。実質的に後の大乗仏教の哲学体系はすべてこのナーガールジュナを基礎としているといっても過言ではないでしょう。 
 ちなみによく「ナーガール・ジュナ」と表記する人がいますが、これは間違いです。もし中黒をつけるとしたら正しくはナーガ・アルジュナですね。ナーガとは蛇、転じて龍神のことです。ナーガールジュナは龍神の世界に招待され、般若経などの大乗経典を人間界に持ち帰ったという伝説があります。アルジュナとはインド神話の主人公を連想させて面白いですね。

 形骸化した部派仏教を否定し、「生きた仏教」を標榜した大乗仏教も、徐々に哲学的探求を繰り返す時代に入っていきます。この時期、仏教のみならずインド全体に、哲学的探求が流行したようです。この辺が「中期大乗仏教」と呼ばれる時代ですね。

 中国や日本に輸入された仏教のほとんどは、初期および中期の大乗仏教ですね。もちろん、日本においては、この純粋なインド大乗仏教ではなく、親鸞・日蓮その他の教祖により、あるいは様々な歴史的事情により、日本に合った形に変革されていきました。その是非についてはここでは言及しません。中国においても、その風土になじませるために、様々な「偽経」が作られたりしました。主な偽経としては「父母恩重経」などが有名です。
 
 そしてその後、インド仏教は、後期大乗仏教、つまり密教の時代へと突入していきます。
 中期大乗仏教は哲学理論はすばらしかったけれど、それを達成する具体的技法においては、ヒンドゥー教のヨーガなどに比べると劣っていたのではないかと思います。もちろん、心の持ち方とか、実生活における修行の進め方とかに関しては説かれていましたが、儀式や肉体行や、身体のエネルギーシステムを使ったヨーガ的行法や瞑想については、遅れをとっていたというか未開発だったわけです。
 そして仏教はそれらを取り入れ、密教化していく道をとります。
 というより、この時代、インド全体に密教化の流れがあったのでしょう。
 ヒンドゥー教も、比較的ソフトなハタ・ヨーガから始まり、様々な儀式を用いるタントラ・ヨーガや、高度な瞑想技術、そしてセックスを利用した解脱法まで、様々なタイプの密教が実践されるようになり、仏教もその波に乗ってそれらを取り入れていったようです。
 特にヒンドゥー教のシヴァ派などの影響を仏教が強く受けたことは否めない事実でしょう。一般に仏教は絶対神としてのシヴァ神を否定することが多いですが、タントラ仏教で出てくる怒りの神々の多くは、シヴァやカーリーや、その眷属の神々がモデルになっているといわれます。もちろん、逆にヒンドゥー教やヨーガも、仏教の影響をいろいろと受けています。

 後の分類においては、後期大乗仏教(密教)はその成立時期によって四段階に分けられるとされます。それは、
①クリヤー・ヨーガ
②チャリヤー・ヨーガ
③ヨーガ・タントラ
④無上ヨーガ・タントラ
の四つです。
 ちなみに、日本密教で重視される大日経はチャリヤー・ヨーガに、金剛頂経はヨーガ・タントラに属するとされています。
 最後の無上ヨーガ・タントラにおいては、クンダリニー・ヨーガ的な様々な神秘的エネルギーを使った技法など、奥深い修行法がいろいろ説かれますが、同時に性的な技法も重要な位置を占めていたのは事実です。
 といっても、僧院などでタントラ仏教を研究・修行する僧などは、出家修行者ですから、瞑想で女神との結合をイメージすることはあっても、実際の生身の女性を相手に性的修行をすることはなかったと思われます。しかし在野の密教行者たちは、実際にそういうことを行なっていました。もちろん、その中でどれだけの人が修行を成就したか、あるいはそのことの是非についてはまた別問題ですが。
 無上ヨーガ・タントラの仏教は、その性質によって父タントラと母タントラに分けられますが、その両者を結合した最高無比のタントラとして現われたインド仏教最後の教えが、カーラチャクラ・タントラです。ただし一部では、このカーラチャクラを正統と認めない見解もあります。

 この無上ヨーガ・タントラに属する段階の仏教がインドからそっくり伝えられたのは、チベットだけでした。
 チベットから多くの修行者や翻訳者がやってきて教えを持ち帰ったり、あるいはインドからチベットへ聖者や学者たちが招待され、チベットへの仏教移入が行なわれました。

 そしてその直後、イスラム教の武力制圧により、インドから仏教は姿を消してしまいました。
 といっても実際は、それだけが理由ではないと思われます。実際このころのインド仏教は、インドの民衆のニーズに答えられなくなっていたのかもしれません。イスラム教は仏教の衰退にとどめを刺したということなのかもしれません。

 こうして、無上ヨーガタントラ仏教が地球で唯一チベットにのみ伝えられた直後、インドから仏教は姿を消しました。

 チベットでの細かい仏教史に関しては長くなるので省略しますが、旧訳派と呼ばれるニンマ派と、新訳派と呼ばれるカギュ派、ゲルク派、サキャ派などがあり、それぞれがまた細かい派に分かれています。 
 チベット仏教は、インドから伝来した小乗仏教・大乗仏教・そして四段階の密教に加え、独特の教義や技法を持し、インド仏教が最後に残したその流れを成熟させてきました。ニンマ派はゾクチェンというチベット独特の教えを持ち、カギュ派はインドの密教行者ナーローパの流れを組むマハームドラーと6ヨーガの教えを特徴とし、サキャ派はまたラムデという特徴的な教えを持ちます。それら密教色の強い各派に対し、ツォンカパの流れを汲むゲルク派は、基本的な顕教の学習や戒律の実践に重きを置くといわれます。
 
 文化大革命時からの中国のチベットへの武力制圧により、寺や仏像が破壊されたり、多くの僧が投獄・殺害され、ダライ・ラマ法王を初めとする多くの高僧や修行者や信者は、インドその他の諸外国へ亡命しました。現在、ダライ・ラマ法王のチベット亡命政府は、インドのダラムサラに置かれています。

 簡単に大雑把におぼえがき程度にと思いつつ、やはり少し長くなってしまいました。とりあえずこのくらいにしておきましょう。

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