クンサン・ラマの教え 第一部 第六章「師にいかに従うか」(2)
(2)師に従う
高貴な者よ,自分を病人だと考えなさい……
「樹の集合経」には、次のように説かれている。
病人が医者に頼るように、
旅人が護衛に頼るように、
怯えた人が仲間に頼るように、
商人が船長に頼るように、
旅人が船頭に頼るように、
悪しき感情を克服し、生死を超えようと思うのであれば、
師に頼らなくてはならない。
固い決意を持ち、強く勇気ある弟子は、命を懸けても師を不快にさせない。
一心に揺らぐことがないため、目の前の状況によって心を乱されることがない。
自分の健康や生命を気にすることなく、師に仕える。
全く労を惜しむことなく命令に従う。
そのような弟子は、師への信仰のみによって解脱する。
正しい識別によってよく自分を守り安定した者は、
健康や命を顧みずに師に仕え、
労を惜しむことなく師の導きに従えば、
師を深く信じるだけで解脱するだろう。
師に従うためには、師を本当の仏陀と認識するほど、師への絶大な信を持たなければならない。
師の行ないの基盤にある智慧を認識し、師が教えてくれることを理解できるように、教えを学び、洞察力を持たなければならない。
誰も守護してくれる者がいないために苦しんでいる衆生に対して、大きな慈悲を持たなければならない。
師が与えた戒やサマヤを尊重しなければならない。
自分の行ない、言葉、思いのすべてを穏やかなものにして律しなければならない。
師や法友がすることをすべて受け入れられる、おおらかな心構えを持たなければならない。
持ち物は何でも師に差し上げることができるように寛大にならなければならない。
あらゆるものはすべて本質的には清らかであると認識し、批判的になったり偏見に染まったりしないようにしなさい。
師を失望させるような、人に害をなすことや悪しきことを行なわないようにしなさい。
大いなる信、認識、知識、慈悲を持ち、
戒とサマヤを尊重し、
身体、言葉、心を制御し、
おおらかな心で、寛大でありなさい。
清らかな認識と自制心を持ちなさい。
「樹の集合経」や他の経典には、師に従う際には、完璧な馬のようでなければならないと説かれている。完璧な馬のように、いかなる状況にあってもいつでも師の望み通りに行動し、師を失望させることを避け、たとえ師にひどく叱責されたとしても、怒ったり嫌悪したりしない。
船のように、伝言を運ぶなど、師のためにいろいろな場所に行くことを嫌がってはいけない。
橋のように、師から頼まれたことがどれほど楽しいことであっても不愉快なことであっても平静でいなければならない。
鍛冶屋の金床のように、暑さや寒さなどの困難にも耐えなければならない。
召使のように、師の命令がどんなものであっても喜んで従わなければならない。
掃除人のように、プライドを持つことなく低い位置にいなければならない。
角の折れた牛のように尊大さを捨て、誰をも敬わなければならない。
師の振る舞いがどれほど不可解であっても、常に清らかな認識を保ち、人を導く優れた手段としてそのようにふるまっているのだと理解しなさい。
偉大な賢者であるナーローパは、非常に深い学識を持ち、悟りを得ていた。しかしダーキニーとイダムが、前世からの師は偉大なティローパであり、ティローパを見つけるために東に行きなさいと告げたため、ナーローパはすぐに出発した。しかしティローパは見つからず、人々に聞いても誰も知らなかった。
「このあたりにティローパという名前の人はいませんか?」
と聞くと、
「不可触民のティローパや、物乞いのティローパならいる」
と言う者がいた。
「成就者の行ないは理解できないことがある。その人がグル・ティローパかもしれない」
と考えて、居所を訪ね、行ってみると、ティローパは魚の入った木の桶の前に座っていた。桶の中の魚は生きているのも死んでいるのもいた。ティローパはそれらの魚を取り出すと、油で揚げていた。ナーローパはティローパに礼拝し、弟子として受け入れてくれるようにお願いした。
「何を言っているのか。わたしはただの物乞いだ」
とティローパは言ったが、ナーローパはあきらめなかったため、ティローパはナーローパを弟子として受け入れた。
そのときティローパは、魚を殺すことで、魚の意識とつながりを作り、高い世界へ転移させていたのだった。サラハは矢を作って生計を立て、シャヴァリパは猟師であったように、インドの優れた成就者の多くは、とても低い地位で生活しており、不可触民の者も多かった。師の行ないを誤って捉えないことが重要であり、清らかな認識を持つように修行しなければならない。
師のふるまいを誤解してはならない。
インドの成就者の多くは、
悪しき行ないを生業にした不可触民であった。
最底辺の者よりも、さらに低い地位であった。
この点を理解せず、師の行ないをいつも誤解し批判する人々は、仏陀釈迦牟尼と一緒にいれば仏陀釈迦牟尼にさえ欠点を見つけてしまうだろう。
スナッカッタという仏弟子は、仏陀釈迦牟尼に侍者として長年仕え、教えもすべて記憶していた。しかし、仏陀のなすことをすべて欺瞞であるとみなし、とうとう、仏陀は自分と同じ程度の者であると考えるようになってしまった。
身体から二メートルの後光がさしていることを除けば、
長年仕えた中で、
ゴマの種ほどの特別な性質も見たことはない。
ダルマについてはわたしは同じくらい知っている。
もはや彼に仕えることはできない。
彼はこのように言い残して去って行った。スナッカッタはその七日後に悪い水を飲んで死んでしまい、花畑に住む九つの醜さを持った餓鬼として生まれ変わった。
素晴らしい師の行ないに欠点を見つけたときは、深く反省して自分を恥じなさい。それは自らの心が不浄であるからであり、師の行ないには全く欠点も間違いもないと考えて、師に対する清らかな認識を強め、信を増大させなさい。
自分自身の認識を深めることなく
他者の間違いを探すことは、はかり知れない過ちである。
ダルマのすべての教えを暗記していても、
スナッカッタは、悪しき力に飲み込まれ、
仏陀の行ないを欺瞞とみなした。
このことをよく考えて、自分を正しなさい。
もし師が自分に対して激しく怒っているように見えるときは、師は激しく怒ることであなたの欠点を正そうとしているのだと思いなさい。師の怒りが静まったら師のところへ行き、自分の欠点を懺悔し、二度としないと誓いなさい。
師が何かしようとするときは、じっと座っていてはいけない。すぐに立ち上がりなさい。師がやって来て座ったときには、師の健康を尋ねなさい。師が何か必要としているものがあると思ったら、それが師を喜ばせるのであればすぐに差し上げなさい。
師のクッションを踏みつけたり、師の馬にまたがったりしてはならない。
師の前で荒々しく扉を開けたり閉めたりしてはいけない。静かに開け閉めしなさい。
師の前で、自慢をしたり不満を述べたりするようなことは一切してはいけない。また、嘘をついたり、軽率な言葉を発したり、不誠実なことを言ったり、誰かをバカにしたり、不必要でつまらないおしゃべりをしてはいけない。自制した振る舞いを学び、尊敬を持って師をもてなさなくてはいけない。
もし師を批判したり憎んだりする人がいたら、その人を友人とみなしてはいけない。もし師を信頼せず批判する人の態度を変えさせることができるのであれば、そうしたほうが良い。しかしそれができなければ、そのような人と打ち解けて親し気な会話をすることは避けなさい。
師を批判したり、憎んだりする人を
友人として扱ってはいけません。
もし可能ならば、その心を変えさせなさい。
そのような人と親しく話せば、その人の悪しき行ないの強い影響によって
あなた自身のサマヤが害されるだろう。
師やヴァジュラの兄弟姉妹と共に過ごすとき、うんざりしたりイライラしたりしてはいけない。心地の良いベルトのようにゆったりとしなさい。自己中心的な思いを控え、塩が食べ物に溶けるように、皆と一つになりなさい。激しいことを言われたり、喧嘩を吹っ掛けられたり、責任が大きすぎても、柱のようにあらゆることに耐える覚悟をしておきなさい。
ベルトのように、心地よい同伴者でありなさい。
塩のように、すぐに溶け込みなさい。
柱のように、どのような重責にもよく耐えなさい。
このように、師とヴァジュラの兄弟姉妹のお付きとして仕えなさい。
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