アムリタ
私にとっては、信仰が種子である。
苦行が雨である。
智慧がわがくびきと鋤とである。
慙(恥じること)が鋤棒である。
心が縛る縄である。
念(サティ)が我が鋤先と突き棒とである。
身を慎み、言葉を慎み、食物を節して過食しない。
私は真実を守ることを草刈としている。
柔和が私にとってくびきを離すことである。
努力が我がくびきをかけた牛であり、ヨーガ安穏の境地に運んでくれる。
退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。
この耕作はこのようになされ、アムリタ(不死の甘露)の果実をもたらす。
この耕作を行なったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。
これは、最も古い原始仏典郡であるスッタニパータにあるブッダの言葉の一つです。スッタニパータは、少なくとも学術的には、歴史的人物としてのお釈迦様の実際の言葉に最も近い内容の集成といっていいでしょう。
さて、この教えは、耕作を例えに、真理の教えを説いたものですね。
仏教は信仰を説かないという人もいますが、ここでは明らかに信仰を説いています。それは種子、つまりすべての修行の根本は信仰であると言い切っています。
お釈迦様は苦行を否定したという人もいますが、ここでは苦行を雨、すなわち信仰という種子をしっかりと育て、芽を出させるには、苦行という雨が必要であるとはっきりと説いています(苦行の意味についてはここでは深く突っ込みません)。
そして耕作用具を例えとして、智慧、慙(悪を恥じること)、心、念などをあげています。
つまり智慧を磨き、悪を恥じ、良き心を守り、正しい思いを常に心に植えつける。
そして、身を慎み、言葉を慎み、節食および小食であれと言っていますね。
真実を守ること・・・これには二つの意味があるでしょう。一つは嘘をつかない正直の実践。もう一つは、あらゆる意味で、真理の教えから外れない生き方を心がけることです。これらが草刈だと。つまり真理の種子が育つのを邪魔する雑草を排除することだということですね。
そして努力という牛によって、ヨーガ安穏の境地--この言葉はニルヴァーナ(涅槃)と同義とされますが--に運んでくれる。その境地に至ったならば、憂いはなくなります。
柔和がくびきを離すこと、というのはわかりにくいですが、努力とリラックスのバランスをとっていくことを言っているのでしょうか?
そしてこの真理の修行という耕作の結果としては、アムリタという果実が得られるといいます。
このアムリタ(アマタ)という言葉は一つは死(ムリタ)の否定(ア)ということで、不死を意味します。そしてもう一つは、甘露という意味もあります。そしてこの二つの意味を合わせ、「不死の甘露」という言い方をされたりもします。おそらく不死(肉体の不死ではなく、絶対的な境地に到達したことだと思われます)の境地と、その境地のすばらしさとしての甘露という意味の、二つの意味があるのだと思います。
ちなみに、ヨーガや密教の世界では、このアムリタという言葉は、脳内で発生する歓喜のエネルギーを指す言葉でもあります。
そしてこの不死の甘露の境地に至ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれるということですね。
もう一度わかりやすくまとめてみましょう。
信仰という種子を、苦行によって育て、
智慧を磨き、悪を恥じ、良き心を守り、正しい思いを常に心に植えつける。
そして、身を慎み、言葉を慎み、節食および小食を守る。
嘘をつかずに、あらゆる意味で真理の教えから外れない生き方を心がける。
これらのことを、(柔和さも持ちつつ)退くことなく努力し続けることで、「ヨーガ安穏」と呼ばれる、憂いなき境地に至る。
そして絶対的な不死の境地、至福の甘露を得、あらゆる苦悩から解き放たれるだろう。