アサンガ
アサンガは、西暦395年ごろ、北インドのガンダーラ国(現在のパキスタンのペシャーワル)で生まれました。彼にはヴァスバンドゥという弟がいました。
二人が年頃に達し、父親の職業を継ごうとした時、彼らの母親が言いました。
「私は、世俗の仕事をさせるために、お前達をこの世に産んだのではないのだよ。お前達は、ダルマ(仏陀の教え)を学んで、仏陀の教えを、この世に広めてもらいたいのだ。」
こうして、弟のヴァスヴァンドゥは、インド北部のカシュミール地方に向かい、サンガバドラという学僧について、教えを学びました。兄のアサンガは、鳥足山という山に登り、瞑想に入りました。瞑想により、マイトレーヤ(弥勒菩薩)の教えを直に聞こうとしたのです。
六年の間、アサンガは厳しい瞑想を行ない、マイトレーヤに祈りをささげましたが、彼の夢の中にさえ、マイトレーヤが現われることはありませんでした。がっかりしたアサンガは、修行をあきらめ、山を降りることにしました。山を降りる道すがら、一人の男が、太い鉄の棒を、一生懸命布で磨いているのに出会いました。アサンガが彼に、「何をしているのですか?」と聞くと、男は答えました。
「わしは針を持っていないので、この鉄を磨いて、針を作ろうと思ってるんですよ。」
これを聞いてアサンガは思いました。
「この太い鉄の棒を一生懸命布で磨いても、何百年かかったって、針ができることはないだろう。この世の人間というものは、なんとまあばかばかしい仕事に、精を出して時を過ごしているのだろう。ところが自分は、ダルマを悟るという価値ある仕事をなそうとしているのに、勇気と忍耐をもって立ち向かうことなく、もうあきらめようとしているとは、恥ずべきことだ。」
このように考えて、アサンガは再び山へ戻り、瞑想修行を続けました。
こうしてまた三年が過ぎましたが、やはり何の達成のしるしも現われませんでした。今度こそ駄目だとあきらめたアサンガが、また山を降りようとすると、道すがら、一人の男が、鳥の羽で岩を磨いているのに出会いました。アサンガが彼に、「何をしているのですか?」と聞くと、男は答えました。
「わしの家はこの山の西側にあるんですが、山が高すぎて太陽をさえぎってしまうので、こうして山を削ってしまおうとしてるんですよ。」
これを聞いて、アサンガは前と同じように思い、再び心を奮い立たせて、山へ戻り、瞑想修行を続けました。
こうしてまた三年が過ぎましたが、やはり何の達成のしるしも現われませんでした。アサンガは今度こそ駄目だとあきらめ、山を降りていきました。その道すがら、アサンガは一匹の犬に出会いました。この犬には前足しかなく、体の後ろ部分には傷があり、蛆虫がわいていました。そんな犬を他の犬達がいじめていました。
この光景を見たアサンガの心に、いまだかつて経験したことがないような、強烈な慈悲の心がわいてきました。アサンガは、この犬に食べ物を与えようとしましたが、何も持っていなかったので、自分の体の肉を切り取って食べさせました。そして傷口の蛆虫を取り除いてやろうとしましたが、傷口が化膿していて、手でやると傷口を傷めそうだったので、自分の舌でなめて、蛆虫をとってあげようとしました。そうしてアサンガが舌を犬の傷口に当てようとした瞬間、犬が消え、光に包まれたマイトレーヤが現われました。
アサンガはマイトレーヤに言いました。
「どうして今まで私の前に現われて下さらなかったのですか。」
マイトレーヤは言いました。
「私はずっとお前から離れたことはない。しかしお前の目が曇っていたので、私を認識できなかったのだ。
しかし12年の修行によって、その曇りが少し洗い清められ、お前は犬を見たのだ。そしてそのときお前の心に湧き上がったすばらしい慈悲の力によって、お前の目は完全に正しい視力を取り戻し、私を見ることができるようになったのだ。
信じられないと思うのだったら、私を肩に乗せて、人々のところへ行ってみなさい。」
そうしてアサンガは、マイトレーヤを肩に乗せて、人々の集まるところに出かけていき、彼らに尋ねました。
「私の肩のところに、何がありますか?」
人々は皆、変な顔をして、「何もないよ」と答えました。
しかし少しだけ心の目の開いた老婆がいて、彼女はこう答えました。
「あんたの肩には、腐った犬が乗ってるよ。」
マイトレーヤはアサンガを、トゥシタ天へ連れて行き、そこで大乗仏教の貴重な教えをアサンガに伝授しました。アサンガはこの教えをもとに、大乗仏教の唯識派の教えを組織的にまとめ上げ、世に広めていきました。弟のヴァスヴァンドゥも、最初は小乗仏教(説一切有部)の教えを学んでいましたが、後に兄の影響で大乗仏教に転向し、兄弟ともに、唯識の教えをまとめた多くの著書を著し、唯識派の基礎を作りました。
アサンガの師匠のマイトレーヤは、伝説では天界に住む未来仏・マイトレーヤ菩薩と同一とされますが、実際に実在した歴史上の人物であったともいわれており、マイトレーヤ自身の著作とされる作品も残っています。