母なる神(6-6)
◎マハーラクシュミー(偉大なる美と調和の女神)
母なる神の本性には、より精妙な神秘が潜んでいて、それなくしては「叡智」も「力」も不完全なものになってしまうだろう。「叡智」と「力」を超えたところに、永遠の美という奇跡が存在しているのであり、神の聖なる調和という捕捉不能の神秘が存在しているのであり、普遍的な魅力という、人を感動させずにはおかない力が存在しているのである。そしてこの力が、様々な者や力や存在を引き寄せたりまとめたりすることで、それらが一堂に会して一つの統一を作るように仕向けてくれるからこそ、姿なき至福も、ヴェールの影からそれらのものに働きかけては、そこからいかにも至福に相応しいリズムや姿を多彩な形で打ち出すことが、可能になるのである。まさにこれこそがマハーラクシュミー(偉大なる美と調和の女神)の力なのであり、神の力がとる諸々の様相のうちでも、衆生のハートにとって、これほど魅力的な要素は他にない。
マヘーシュワリー(偉大なる自在な叡智の女神)は、ささやかな地上の者が近づくには、あまりにも悠然として見え、マハーカーリー(偉大なる力の女神)は、あまりにも迅速にして恐るべきもののように見えることもあるのに対して、マハーラクシュミー(偉大なる美と調和の女神)に対しては、万物は等しく喜びとあこがれをもって向き直るのである。
彼女の間近に身を置くことは、それ自体一つの深い幸せであり、彼女の存在をハートの内に感じることは、それ自体、生命あるこの身を一つの恍惚とし、一つの脅威とすることである。上品でやさしい魅力が、さながら太陽からこぼれる光のように、彼女からあふれ出すとき、彼女がその素晴らしいまなざしを振り向けるところならばどんなところであろうと、また彼女がその愛らしいほほえみをもらすところならばいかなるところであれ、魂はすっかりそのとりことなって、至福の底知れぬ深みに投げ込まれる。彼女の手はさながら磁石のようで、その繊細で不可思議な威光は、精神と生命と身体をそっくり洗練されたものにしてしまい、彼女の足跡からは、人をうっとりとさせる至福の、奇跡のような流れがこんこんと流れ出すのである。
とはいえ、この魅惑的な力の要求に応えたり、彼女の存在を失わないでいたりすることは、やさしいことではない。精神と魂の美しい調和、思考と感情の美しい調和、あらゆる外向きの行為と運動の美しい調和、生命と環境の美しい調和。これこそが、マハーラクシュミー(偉大なる美と調和の女神)の求められるところであるからだ。
密かなる至福の世界のたたえる多種多様なリズムへの共感のあるところ、欠ける事なき美しさと和合と統一とからの呼び声に応答のあるところ、喜々として神に向き直る多種多様な生命の麗しき流れのあるところ、マハーラクシュミー(偉大なる美と調和の女神)は、そのようなところにこそ、とどまりたまうお方であるからだ。
これに対して、醜く、卑しく、浅ましいものや、粗野で粗雑なものは、彼女のご光臨をはねつけてしまう。愛と美が等しく存在しないところに、彼女がやってくることはない。愛と美に混ぜものがされたり、愛と美が卑しいものによってゆがめられたりしようものなら、彼女はそこをそそくさと立ち去ってしまう。
人々の心に利己心、憎しみ、妬み、そねみ、悪意、敵意などがとりついていたり、神から下された聖杯に背信や貪欲や忘恩などが混入していたり、せっかくの献身・明け渡しも粗野な欲望などで台無しになってしまっていたりしたならば、上品で美しいこの女神が、そのような心に長居することは決してない。そのようなところからは、彼女はすぐさま身を引いてしまうのだ。それは、彼女が、無理強いしたり、逆らったり、争ったりするお方ではないからである。
さもなければ、この毒々しい悪魔的なものが姿を消し、神聖な受け皿が整うまでは、彼女は自らの顔をヴェールで覆って、じっと静かに時を待つ。彼女が人に「神のくびき」を据えるのは、あくまでも愛と美を通してでしかないからである。
彼女の至高の創造物の内では、生命が、豊かで天上的な芸術作品となり、実在全体が、聖なる喜びにあふれた一編の詩と化してしまう。この世のありとあらゆる豊かさが一つにまとめられて、この上もない一つの秩序にまで高められるからだ。
最も素朴でこの上もなく月並みなものたちでも、彼女が一瞬でも統一を念じ、彼女の魂がそれらに一息を吹き込めば、たちまちにして素晴らしいものに変じてしまう。
彼女は叡智を驚異の頂点にまで押し上げて、叡智に向かって、どんな知識にも勝る恍惚の神秘の秘密をつぶさに明らかにする。
また献身に対しては、神の熱気に満ちた牽引力をもって応え、強さと力に対しては、その勢いに調和と節度を保たせるようなリズムを伝授し、完成と完全に対しては、それがいつまでも永続するような魅力をそえてあげるのである。