yoga school kailas

母なる神(6-4)

◎母なる神の四つの偉大な相

 母なる神がこの世を導き、地上の遊戯(リーラー)を扱うに当たっては、ご自身の四つの偉大な相が、その主要な力および人格として前面に立ってきた。
 その一つは、悠然とした落ち着きと、一切を包み込む懐の深い叡智と、物静かで穏やかな優しさと、尽きることのない深い哀れみと、超然たる威厳と、あまねく一切を支配する偉大さを併せ持った、その叡智あふれる相である。
 二つ目は、輝かしい強さと抗しがたい情熱とに満ちた力と、戦士としての気概と、圧倒的な意志と、風のごとくに迅速な動きと、世界を震撼させるほどの力とを一身にそなえた、その毅然たる相である。
 第三には、美と調和と微細なリズムとをたたえたその深い神秘と、複雑にして微妙なる華麗さと、人を感動させずにはおかない魅力と、えもいわれぬ気品とが醸し出す、生き生きとして調和ある見事な相である。
 そして第四は、何事につけても、詳細な叡智と、周到にして非の打ち所のない仕事ぶりと、控えめながらも厳密無類の完璧さを示さずにはおかない、その綿密にして深遠きわまる完璧な技量である。
 これら「叡智」と「力強さ」と「調和」と「完全性」が、「母なる神」の主要な力と相に見られる属性の一例で、まさしくこれら主要な力が、それぞれのヴィブーティを通して、人間の姿にこと借りた神格としてこの世にもたらされると、今度はその同じ力が、母なる神の生きた直々の力に向けて己の地上的本性を開くことのできる人たちのうちで、それぞれヴィブーティが下った聖なる程度に合わせて、揺るぎなきものとして確立されていくのである。
 私たちはこれら四つの属性に、マヘーシュワリー(偉大なる自在な叡智の女神)、マハーカーリー(偉大なる力の女神)、マハーラクシュミー(偉大なる美と調和の女神)、マハーサラスヴァティー(偉大なる完全性の女神)という、四つの偉大な名前を与えている。

◎マヘーシュワリー(偉大なる自在な叡智の女神)

 至高にして最大なる叡智をそなえた女帝、すなわちマヘーシュワリー(偉大なる自在な叡智の女神)は、思考を持って事とする精神や意志を超えたところに泰然と構えて、精神と意志を高貴なるものたらしめることで、これらを度量の大きな叡智へと育て上げたり、これらの上に自らの栄光をなみなみとそそいだりしている。
 それもそのはず、このお方は、力強くも叡智あふれるお方として、私たちを、超精神の光彩陸離たる無限の世界と、広大果てなき宇宙大の世界とに向けて開きたまい、私たちを、至高の光が放つ壮麗無類の輝きに向けて、また奇跡に満ちた叡智の住まう館に向けて、さらには母なる神の永遠の力が繰り広げる無限の運動に向けて、広くあまねく開きたまうお方であるからだ。
 このお方は、驚くべき落ち着きをたたえて、悠然とした態度を、変わることなく永久に保持している。いかなるものも彼女を動かすことができないのは、彼女がありとあらゆる叡智をそなえているからだ。彼女が知ることができないものなど何もない。彼女は一切の事柄と、あらゆる存在と、それらの本性とを、ことごとく熟知し、それらを動かすと共にこの世の法則とこの世の時間をも動かしているものが何であり、それら一切が過去においてどのようであったか、そして現在どのようであるのか、さらにはそれら一切が将来どのようなものとなるはずなのかを、ことごとく熟知している。
 彼女の内には、一切に対処し一切を支配する力があるため、彼女自身の広大にして触れることさえかなわぬ叡智に逆らい、彼女自身の気高くもその落ち着き払った力に抗しうるものなど、結局のところ皆無である。
 彼女は辛抱強く偏りのない、その不退転の意思をもって、人々をそれぞれの本性に従って扱い、物事と出来事をそれぞれの力と、それらの内に潜む真理に応じて扱う。
 彼女は、偏愛とは一切無縁なところで、ただ至高者の命のみに従って、ある者は引き上げる一方で、ある者は投げ倒し、ある者は闇の世界に投げ捨てる。
 叡智ある者にはより大きな叡智とますます光り輝く叡智とを与え、神のヴィジョンを抱く者にはこれを己の顧問団に取り立て、神に敵対する者にはその敵意の帰するところを身をもって知らしめ、迷妄にして愚かなる者は、その迷妄の度合いに応じてこれを導く。
 彼女はいかなる人にあっても、それぞれに異なる諸々の要素に固有な要求および衝動に応じて、それぞれに相応しい扱いをし、それらに相応の緊張を負わせたり、それらの無智を増大させるような繁栄に導いたり、それらを絶望の淵へと導いたりする。というのも、彼女は一切を凌駕し、いかなるものにも縛られず、この世の何ものにも執着を持たない存在であるからだ。
 だがそれでいて彼女は、他のいかなる者にも増して、あまねく一切に及ぶ普遍的な「母なる神」の心根をそなえている。彼女の慈愛は絶えることなく、汲み尽くすこともできない。彼女にとっては一切が彼女自身の子供であり、唯一者の互いに異なる部分でしかない。彼女が拒絶を示すときも、それは一つの延期に過ぎず、彼女の与える罰でさえ、それは一つの恩寵でしかない。
 とはいえ、彼女の慈愛が、彼女の叡智をくらませたり、彼女の行いを外させたりすることは決してない。それは「真理」こそが彼女の関心であるからであり、「叡智」こそが彼女の力の原点であるからであり、私たちの魂と本性をもろともに真理へと建て替える事こそが、彼女の使命にしてつとめであるからだ。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする