隙間
これでいいんだろうかとか
どう思われるだろうかとか
どう思われたいとか
「私とは?」とか
そんなものさえ何もない世界
しかしそこは何もないわけでもあるわけでもなく
しいて言えば光舞う、純粋意識
そこに到達すると
一切の関係性は消える
それを維持できるなら解脱者であり
彼がそのまま肉体を捨てれば、輪廻から解放される
しかし真実には輪廻もニルヴァーナもなく
解脱も束縛もない
そのような悟りに、彼は行く
ただし、一部の者は、その真実を知りつつも、この世に残る。
またこの二元の関係性の世界に戻ってくる。
ある者は衆生への強烈な慈悲によって、
ある者は主への奉仕の思いによって、
そしてある者は主そのもの、アヴァターラであるがゆえに
この世に残る。
そして彼らは、この関係性の世界を楽しむ。
バクティと四無量心で
この世の苦楽、浮き沈みを楽しむ。
そしてある者はまたこの世界に巻き込まれ、
ある者は、巻き込まれたように見えても、真実には決して巻き込まれることなく、この世を生きる。
それは彼らの悟りの器の広さによって違う。
主のアヴァターラ、あるいは器の広い解脱者や菩薩やバクタたちは、
無数の世界に化身を飛ばし、使命を遂行している。
初心の菩薩やバクタは、一つの世界だけでいっぱいいっぱい。
そして毎生毎生、主への奉仕と他者への慈悲だけのために人生を捧げ続けることで
目覚めと眠りを繰り返し、その器は広げられていく。
この世は妄想の世界。
ゆえに真実には善悪も良し悪しもないが
この妄想の世界にからめとられている者たちは、善悪をしっかり認識し、善を積み、悪を避けなければ、ここから脱出するとっかかりがない。
そして主を、あるいは聖師を、
観念を超えた目で、善悪も良し悪しも、苦楽も正邪も、すべてを超えた絶対者として見なければならない。
観念的にであっても、そのような目線を持たなければ、
たとえ善を積み、悪を避けていたとしても、
その土台から、真実の世界への梯子は、かかることはない。
そして観念ではなく、本当に主や聖師が、愛おしく、美しく、輝かしい唯一者として見えてきたならば
彼はすでに解放されつつある。
「その世界」においては、問いも答えもない。
しかし主は、慈悲によって、二元の世界にいる者の問いに答える。
主の慈悲と、信者の浄信が、
一見相容れることのない、この二つの世界をつなぐ。