要約・ラーマクリシュナの生涯(35)「ラーマクリシュナのシャムプクル滞在」
35 ラーマクリシュナのシャムプクル滞在
◎ナレンドラの就職と退職
ナレンドラがついにカーリー女神を受け入れ、師ラーマクリシュナの祝福を受けたのち、彼の家族の経済状態は徐々に改善され、豊かではなかったが、以前のような貧困にあえぐことはなくなった。この出来事の直後に、ヴィッダシャーゴルがカルカッタのチャンパタラ地区にメトロポリタン・インスティテュートの分校を開き、ナレンドラを校長に指名したのだった。ナレンドラはここで三、四カ月間働いた。
経済状態はある程度改善されたものの、この時期のナレンドラは、親類からの悪意にひどく悩まされていた。彼らは、ナレンドラの父親が亡くなったのをよいことに、彼らの所有地を自分たちのものにしようとしたのだった。その結果ナレンドラ一家は、一時的に家を出て祖母の家に住まなくてはならなくなり、彼らに対する訴訟を起こすことを余儀なくされた。ナレンドラは、この訴訟に多くの時間を割けるように、また法学士の最終試験の準備のために、校長の職を辞さねばならなかった。さらにもう一つの理由としては、ラーマクリシュナの体調が悪化していたことがあった。師ラーマクリシュナの看病と奉仕により多くの時間を注ぐ必要性をナレンドラは感じていた。
◎ラーマクリシュナの喉の病気の始まり
1885年、ラーマクリシュナが暑さのために非常に弱っていたので、信者たちは、氷を召し上がるように師に勧めた。これで師が楽になったのを見ると、多くの信者がドッキネッショルに氷を持ってくるようになった。ラーマクリシュナは子供のように、氷を入れた水や果汁を喜んで飲んだ。しかし一、二カ月すると、ラーマクリシュナの喉に痛みが生じ始めた。
それから一カ月が過ぎるころには、話しすぎたり、サマーディに入ると、症状が悪化するようになった。最初は風邪による咽頭炎と診断されて、軟膏が処方された。しかし数日たっても改善が見られなかったので、こうした病の専門家として知られるドクター・ラカールチャンドラ・ハルダルが招かれた。彼はラーマクリシュナを診察し、内服薬と軟膏を処方した。
しかしそれらの薬を一カ月以上続けても、喉の痛みはよくならなかった。慢性の痛みの他に、満月、新月、エーカダシーの日などには、痛みが激しくなった。こうなると、歯ごたえのある食べ物などは一切呑み込むことができなくなり、乳がゆやでんぷんのプディングしか食べられなかった。
医師は、痛みの原因が、声帯の酷使と昼夜教えを説くことによる「坊さんの喉痛」だと診断した。医師たちは薬を処方し、食餌療法その他の指示を与えた。ラーマクリシュナはそれらのほとんどを忠実に守ったが、二つだけ守れないことがあった。それは神への愛ゆえにサマーディに入ることを抑えられなかったのと、人々への慈悲心から、信者たちへの法話もやめることができなかったのである。
この時期、多くの求道者たちがラーマクリシュナを訪ねていた。常連の信者の他に、毎日6、7人以上の新来者が訪れていた。
以前、ラーマクリシュナは、よくこう言っていた。
「多くの人々がこれ(ラーマクリシュナ自身)を神と見なして敬愛するようになれば、この身体は間もなく姿を消すだろう。」
また、ラーマクリシュナがホーリーマザーにこのように言ったこともあった。
「私が誰からでも食べ物を受け取るようになって、カルカッタで夜を過ごすようになるとき、また最初の一口を誰かに与えて、それからその残りを食べるようになったときは、私が肉体を離れる日が近いと知るだろう。」
こうしたことは、ラーマクリシュナが喉の病を発症する少し前から起こり始めていた。カルカッタに住む様々な信者たちの招待を受けて、誰に出された食事も食べた。またカルカッタのバララームの家に幾日も泊まった。
またあるときラーマクリシュナは、自分のために用意された米飯とスープをナレンドラに与えて、その残りを自分で食べた。これを知ったホーリーマザーはラーマクリシュナのために新しい食事を作ろうとしたが、ラーマクリシュナは、「何の害もないことだ。作り直す必要はない」と言った。
後に、ホーリーマザーはこう言った。
「師は私を安心させようとなさいましたが、師の予言を思い出すと、私は悲嘆に暮れたのでした。」
◎病の悪化、シャムプクルへの移住
八月末、ラーマクリシュナの喉の痛みはひどくなり、信者たちは思案に暮れた。そしてこの時期、方向の決定を迫るある出来事が生じた。
ある日、バグバジャルに住むある女性が、夕食にラーマクリシュナの信者たちを招待した。ラーマクリシュナもお迎えしたいと思ったが、容態が悪いのであきらめていた。それでも短時間でもいらっしゃることを期待して、一人の信者をドッキネッショルに迎えにやらせた。しかし九時ごろになってその信者は、「今日、師の喉から出血があったので、師はいらっしゃらない」という知らせを持って戻って来たのだった。
そこに居合わせたナレンドラ、ラム、ギリシュ、デヴェンドラ他の信者たちは心配を極めた。話し合いの結果、カルカッタに家を借りて、ただちに師が治療を受けられるようにすべきだ、という決定が下された。
その夕食の席で、ナレンドラはひどく気落ちしている様子だった。ある若い信者がその理由を尋ねると、ナレンドラは言った。
「我々全員をこんなに幸せにしてくださったお方が亡くなられようとしているのだ。私は医学書を読んで、医者の友人に尋ねてみた。彼等は皆、この種の喉の病気はガンに進行すると言うのだ。この出血で、さらにガンが疑われるようになった。そうだとすれば、手の施しようはあるまい。」
その翌日、数人の年長の信者たちがドッキネッショルを訪れ、ラーマクリシュナに、治療のためにカルカッタに移り住んでくださるようにお願いした。ラーマクリシュナは同意した。しかし信者たちが用意した家に行くと、ラーマクリシュナは「ここには暮らせない」と言った。そこでラーマクリシュナは一時的にバララーム・ボースの家に少しの間滞在した後、シャムプクルに新たに借りられた家に移り住んだ。一八八五年九月初めのことだった。
◎マヘンドララール・サルカル医師
ラーマクリシュナがシャムプクルの家に移った数日後、信者たちの手配により、マヘンドララール・サルカル医師が、ラーマクリシュナの主治医としてやってきた。彼は最初の診療では信者から治療費を受け取って帰ったが、二度目の訪問時に、信者たちがラーマクリシュナのためのすべての出費を負担していることを知った医師は、信者たちのグルへの献身を喜び、こう言った。
「できるだけの治療をいたしましょう。皆さんの善行のお手伝いとして、料金はいただきません。」
そして実際それ以降、サルカル医師は治療費を一切受け取らずに、ラーマクリシュナの診断と治療にあたったのだった。
サルカル医師は、治療のためにラーマクリシュナのもとに通うたびに、最初のころは特に、信者たちがラーマクリシュナを神のように扱っていることに対して批判的な意見を述べていた。しかし何度もラーマクリシュナを尋ねるうちに、医師自身がラーマクリシュナに強く惹かれるようになり、時間が許せば何時間もラーマクリシュナのもとで過ごした。
あるとき、いつものようにサルカル医師がラーマクリシュナや信者たちと神の話を繰り広げていると、笑いながらギリシュが言った。
「あなたはもう三時間か四時間もここで過ごしてしまった。患者たちはどうなっているのですか?」
サルカル医師は、
「ああそうだ、わたしの仕事と患者たち! あなたのパラマハンサのおかげで、わたしは何もかもを失ってしまうのだろう!」
と答え、皆は大笑いした。
また、サルカル医師はラーマクリシュナに向かって、冗談交じりにこう言った。
「あなたのご病気は、患者は人と話してはいけないことになっております。しかしわたしの場合は別でございます。わたしがここにいる間は、わたしと話をなさってもかまいません。」
これを聞いて皆はまた大笑いした。
◎カーリー・プージャーの法悦
1885年の11月、その年のカーリー・プージャーが近づいていた。ラーマクリシュナの病は深刻化の兆しを見せていた。しかし彼の至福と快活さは衰えるどころかむしろ増しているように見えた。
師の容態を鑑みて、信者たちはその年のカーリー・プージャーを祝うことは無理だと考えていた。しかしカーリー・プージャーの前日になって、ラーマクリシュナは、「明日はカーリー・プージャーをしよう」と信者たちに言った。
こうして11月6日の金曜日のカーリー・プージャーの夜、信者たちがプージャーのための品々をラーマクリシュナの部屋に運び、ランプに火が灯されて、お香が焚かれ、すべての準備が整えられた。信者たちは師の指示を待っていたが、ラーマクリシュナは何も言わず、ベッドの上に座っているだけだった。
いつまで経ってもラーマクリシュナが沈黙したままなので、多くの信者たちは当惑していた。しかしそこにいたギリシュ・チャンドラ・ゴーシュの中に、ある考えがひらめいた。
「師はどうして何もせずに静かにお座りのままなのか? これは、師の生きたお姿の中に聖なる母を礼拝せよということに違いない。」
そしてギリシュは喜びに我を忘れて、花とビャクダンの練り香をお盆から取ると、「母に勝利あれ!」と言いながら、それらを師の御足にささげた。ラーマクリシュナは身震いして、そのままサマーディに入った。顔は光り輝き、神々しいほほえみに飾られた。その御手はカーリーの像に見られるような、無恐怖と恩寵を示す印を組み、まさにカーリー女神ご自身がラーマクリシュナの中におられることを示していた。
信者たちはたとえようもない喜びに包まれて、各自がお盆から花とビャクダン香を手に取ると、各自のムードにふさわしいマントラを唱えながら、師の御足を礼拝した。
しばらくの時が過ぎ、ラーマクリシュナが半意識状態に降りてくると、お菓子や果物などの供物が師の前にささげられた。ラーマクリシュナはそれらを少し召し上がると、信者たちが最高のバクティと叡智に至るよう祝福した。信者たちは師のプラサードをいただき、キールタン(神への賛歌)を夜中まで歌い続けた。
◎師の病の悪化と、新来者の訪問の制限
シャムプクルに移住後、ラーマクリシュナの病は悪化の一途をたどった。その一方、以前よりも尋ねやすい場所にラーマクリシュナが滞在していたおかげで、訪問者の数は増え、多くの者たちが初めてラーマクリシュナを訪ねた。また、以前にドッキネッショルを一、二度尋ねていた信者たちも、ここシャムプクルにおいてラーマクリシュナとより深く交わる機会を得た。
ある日ラーマクリシュナは、自分の微細体が粗大体(肉体)から抜け出して、部屋を歩き回るのを見た。そして微細体の喉の後ろには傷があった。それについて母なる女神がラーマクリシュナに説明した。それは、様々な罪を犯した人たちがラーマクリシュナに触れて清められた結果、その罪がラーマクリシュナの身体に移されて、傷を生じさせたのだということであった。
この経験をラーマクリシュナから聞いて、信者たちは心を動かされた。そしてある信者たちは、ラーマクリシュナの健康が回復するまで、新来者がラーマクリシュナの御足に触れたりすることがないように注意した。以前の自堕落な生活を思い出して、二度と師の浄きお体に触れるまいと決心した信者もいた。
新来者がラーマクリシュナと会うことをある信者たちが止めようとしているのを見たギリシュは、彼らに言った。
「こうするのも悪くはないが、無駄な努力だろう。なぜなら、師が肉体をまとわれたのは、まさにこの目的を果たすためなのだから。」
実際、この試みは難しいということが分かってきたので、明確に規則が設けられた。それは、今後、基本的に面識のない人はラーマクリシュナに近づくことが許されず、信者の知り合いの新来者は、お辞儀は許されても、ラーマクリシュナの御足に触れることは許されない、というものであった。
この規則に関連して、面白い出来事があった。
ラーマクリシュナがまだドッキネッショルにいたころ、ギリシュの劇場で宗教劇を鑑賞したラーマクリシュナが、主役の女優であったビノディニの演技を褒め、その頭に触れて祝福し、「輝いていなさい」と言葉をかけた。ビノディニは法悦状態にあったラーマクリシュナの御足の塵をいただいた。
それ以来、ビノディニはラーマクリシュナを生ける神と仰ぐようになった。ラーマクリシュナを心から敬愛し、もう一度お目にかかる機会を求めていた。
その後、ラーマクリシュナが不治の病にかかりシャムプクルに移住したと聞くと、ビノディニはどうしてもお会いしなくてはならないと思い、ラーマクリシュナの熱心な信者の一人であったカリパダ・ゴーシュに、師への訪問を取り計らってくれるよう、熱心に頼んだ。
ラーマクリシュナの病気に関する見解は、信者の間でも様々に異なっていた。カリパダ・ゴーシュは、ラーマクリシュナを神の化身(アヴァターラ)であると信じていたので、悔い改めた罪人がラーマクリシュナの浄き御足に触れても、その病気が悪化するとは思っていなかった。それゆえ、ラーマクリシュナのもとへビノディニを連れて行くことに、何のためらいもなかった。しかし師への訪問を制限している信者たちに見つかるとまずいので、ある夜、彼はビノディニを帽子とコートで紳士のように変装させ、ひそかにシャムプクルのラーマクリシュナのもとへ連れて行った。おふざけが好きなラーマクリシュナは、ビノディニが紳士に変装して信者たちの目をくらませたことを知ると、大笑いした。そしてビノディニの信仰と帰依心を喜び、その勇気と抜け目なさを褒め、いくつかの助言を与えた。ビノディニは涙ながらにぬかずき、ラーマクリシュナの御足に頭をつけると、カリパダとともに去って行った。
のちにこの出来事はラーマクリシュナ自身によって信者たちに明かされたが、信者たちが騙されたことを師が非常に面白がって笑っていたので、信者たちはカリパダやビノディニに腹を立てるわけにはいかなかった。
このビノディニはのちに、自叙伝の中にこう記している。
“世界中の人々が、私の罪深い人生をどれほど軽蔑しようと気にしない。私はシュリー・ラーマクリシュナから祝福を受けたのだ。彼の愛、希望溢れるメッセージは、今なお私を勇気付けてくれる。ひどく落ち込んだときは、甘く哀れみ深い彼のお顔が心に浮かび、「ハリグル・グルハリ(神はグル、グルは神)と唱えなさい」という言葉が聞こえるのだ。”