yoga school kailas

「極悪非道の者でも」

◎極悪非道の者でも

【本文】
 たとえ極悪非道の者であったとしても、もしその者がひたすらわたしを信じ礼拝するならば、彼は善人とみなされよう。
 なぜなら、彼は根本において正しい決意をしているからである。

 彼は速やかに真理の法の魂に立ち戻り、永遠の平安を得ることであろう。
 クンティー妃の息子よ! わたしのバクタ(信愛者)は決して滅びぬことを確信せよ。

 極悪非道。極悪非道っていうのも、その社会とか世界の観念なわけだけども、結局その最悪の悪というのは一体なんだろうかと。
 Pさん、最悪の悪とは何だと思いますか? 最悪の煩悩と言ってもいいけど、最悪の悪とか煩悩っていうのは。悪っていろいろあるよね。例えば殺生とか盗みとか、いろいろあると思うんだけど。

(P)分からないけど……全く何も信じていない……とか?

 何も信じていないとか? Sさん、どう思います?

(S)神への信仰心がない人とか、あとは殺人を犯す人とか……

 まあ、現象的な面では、殺生が一番の悪だよね。でも実際は、本質的には、信じてないというよりも、無智なんだね。何でかっていうと、悪の定義からいうと、善とか悪の定義っていうのは、われわれを――われわれというのは、自分自身それからそれにかかわった人たちを、高い世界または最終的には悟りの境地に運ぶ行為――これが善なんです。逆にわれわれを低い世界に落とす行為――これは悪なんだね。
 最高の悪って何かというと、無智だと。
 これはお釈迦様はこういうことを言っていて、何かというと、ここに悪人がいて、王様に捕まって、体中を死なない程度に槍で刺される。朝昼晩ずーっと何百回も刺され続ける。これを何日も何日も繰り返される。これさえもね――お釈迦様はサッチャって言うんだけど、サッチャってサンスクリットでサティヤだね。つまり真理――真理を知らないことよりはましだと。別の言い方をすると、それをひたすら繰り返されて、最後に真理を知ることができるならば、それはやるべきだと。
 あるいはまた別の言い方をするとね、地獄に落ちるよりも、真理を知らないことの方が駄目だと。一度地獄に落ちることよりも、真理を知らないことの方が劣っていると。
 例えば、何かの徳によって今、人間界で楽しくやってるんですよと。でも真理をよく知らないんですよと。これと、例えば真理を知ってるんだけど、いろんなタイミングとか過去の悪業によって、地獄に落ちちゃったと。これは前者の方が駄目なんだね。つまり、真理を知らないということは、過去からのいろんな条件によって、今ちょっといい状態にあったとしても、また当然低い世界に落ちてしまう。無智なんだけども、いろいろタイミングでね、善を行うこともあるだろう。それによっていい世界に行くかもしれない。でもまた悪い世界に落ちると。これをひたすら繰り返すと。
 じゃなくて――ここにいるみんなもそうだろうけどね――過去の悪業で、いろんな悪いことやっちゃいましたと。しかし、気づきましたと。ね。真理にね――真理というか、カルマの法則も含めてね、「正しい生き方こうなのかな?」ってことにちょっと気づいてきた――これが一番素晴らしいんです。でもこの人は、過去の悪業があるから、表面的にはね、いろいろ性格的にもまだ悪いところがあるし、いろんな悪いことも起きるかもしれない。表面的には、「あの人なんかちょっと徳がなさそうだね」とか、「あの人怒りっぽいよね」とか、いろいろ言われるかもしれないけども――真理を知っている。もう一方は、何か人としてとても素晴らしそうで、幸せそうだと。「ああ、徳がありそうだなあ」と――でも真理を知らない。これは前者の方が絶対にいい。
 私いつも思うけど、テレビとかで極悪人扱いされる人がいっぱいいるじゃないですか。例えば、こういう事件が起きましたと。コメンテーターとかが、「本当に信じられません」と、うわーってなるんだけど、誰がどうなるか分からないよ。私、いつも思うんですよ。例えば信じられないようなね、最近は信じられないような事件って多いじゃないですか。なんでこんな残酷なことするのってあるけども、それはもうみんなにうわーって非難されるわけだけど、私はやっぱりね、「何かあったのかもな」って思うんですよ、やっぱりね。その人の人生とか考え方に、何かあったのかもしれないなと。同情というか、同情というと変だけども、理解したいと思うね。だってそれは、いつ誰がなるか分からないんだよ。もっともらしいことを言っているコメンテーターが、明日同じことをするかもしれないんだよ。いろんなカルマの流れとか、心なんて分からないから。そういう目で見てあげなきゃいけない。そういう目で見ると、誰だって極悪人になる可能性はある。でもその中で真理というものと縁があるのかどうか。あるいは、ちょっとでもそれに気づく知性があるのかどうか――そっちの方が大事なんだね。
 だからユクテスワも言っているけどね、修行に入る前のことっていうのは、あまり考えなくていいと。修行に入る前というのは皆暗いものだと。多くの悪業をなしているもんだと。修行とか真理の道に入ってからが問題なんだと。そこからはもちろん、いろんな過去の悪業の苦しみとかはやってくるけども、あとは自分は努力をすればね。あとはさっき言った、眼を開いていくというか。悟りにどんどんいく道に、開いていく道になるわけだから。その人がそれをあきらめない限りは、ここにも書いてあるように、必ず、「真理の法の魂に立ち戻り、永遠の平安を得ることであろう」と。
 ここで書いてあるのは、「ひたすらわたしを信じ礼拝するならば」って書いてあるけども、つまりこれは言い方を変えれば、このギーターの真理に出合えるっていうのは、前生でよほど徳を積んでいないと駄目だといわれてる。ここで何回も言っているような、最高の真理ね。実は絶対者というのはあるんだよと。それに帰依し、礼拝し、すべてをささげものとすることが最高なんだよ――という教えね。これに気づき、例えば極悪人がいてね、例えばこの世界で極悪人とされる人がいて、もう誰もがテレビとかで見てね、「あの人はもう信じられない」という人がいたとして、でもその人が獄中とかでハッと気づいて、「クリシュナが全てだと」。ね。その道を歩き出したとしたら、その人は、もちろん来世は地獄に行くかもしれないよ。今生のカルマによって。でも来世地獄に行くかもしれないけども、再来世も地獄かもしれない。何十生も地獄かもしれないけども、必ずクリシュナの下に行きます、最後は。でもそうじゃない人は、適当に、「ああ、あの人悪いことしたねえ」とかやって、適当に生きて、でもその最高の真実を知らない人は、来世地獄に行かないかもしれないけど、この輪廻からずーっと抜け出せない。だから、真理に気づくことが一番大事なんです。しかもこの最高の真理に気づくことが、一番最高なんだね。
 だからみなさんの中でこういう話を聞いて、ちょっとでもこのバガヴァッド・ギーターが「なんか分かったかな……」というのは、それはみなさんにとっての素晴らしい財産です。このバガヴァッド・ギーターというのは、何度も言うけども、最高の真理なので、分からなくてもいいです。「なんか先生、変なこと言っているな」と。例えば、「仏教の話は理路整然としているし分かりやすいんだけど、バガヴァッド・ギーターの話になると、神よ、とかばっかり言っててよく分からないな」と(笑)。それはそれでいいよ、そういう人はね。じゃなくて、なんとなく分かるなっていう人は、そのなんとなくの部分の方を大事にしたらいいと思うね。それを育てていくと、それはみなさんのすごい宝物になります。これはなかなか現代では説きにくい真理なんだね、バガヴァッド・ギーターの真理というのは。最高の真理ではあるんだけど。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする