もし菩提心がなかったら
【本文】
あたかも夜に、雲深き暗黒に、稲妻の閃光が一瞬、物を照らし出すように、ブッダの威力によって、世人の思いが、しばしの間、福善(幸福の因たる善行)に向かうことがある。
だから浄き行いは常に力が弱い。これに反し、悪の力は大きく恐ろしい。もし菩提心がなかったら、他のいかなる浄善によって悪を征しえよう。
【解説】
このたとえは書いてあるままなので、わかりやすいですね。
我々はほとんど暗闇の中にいるわけですが、ブッダの力によって、ほんのわずかな間だけ、我々は、「善を実践してみようかな」とか、「浄らかな生き方をしたいな」とか思うというわけですね。逆にいえば、ほとんどの時間は悪に心が向かっており、また、常に悪業をなしているんだと。
いや、私はそんなに悪業をなしていないよ、という人がいるかもしれませんが、仏教で言うところの悪の定義は非常に厳しい。心における執着とか、憎しみとか、嫉妬とか、嫌悪感とかも悪ですし、たとえば日本人が普通に行なっている虫の殺生ももちろん悪ですし、不倫や嘘や悪口なども、もちろん戒律に引っかかることになります。
ここでいう悪とは、もちろん、倫理的な道徳観ではありません。実際に我々の心身をこの苦界に縛り付け、苦しみのカルマを生じさせる、心と言葉と体の行為ということですね。だから仮に誰かに迷惑をかけていなかったとしても、悪は悪なのです。
我々の日常を詳細に反省してみればわかるように、ほとんど、そういう意味では悪に満ちているわけです。しかしブッダの慈悲により、パワーにより、あるいはブッダと我々の縁により、ほんの瞬間的に、真理とか善に心が向かうことがある。実際にそのときに、真理や善の実践もするかもしれない。しかしそれは、全体から言ったら、ほとんど悪なわけだから、ほんの微々たるものだということですね。
このような、ほとんど負けばかりの、善と悪の戦い。ここにおいて、善の軍において、最も力となる救世主的アイテムが、「菩提心」なんですね。
菩提心はそれだけ、力が強い。
菩提心とは一応定義すると、「すべての衆生を救うために、私が覚醒を得ようと思う心」ですね。この菩提心を発露させ、まだ弱くてもなんどもそれを考え、誓い、心に植えつけていくならば、私たちは私たちの中の悪に打ち勝ち、悪を征することができるんだと。逆にいえば、この菩提心がなかったら、とても我々は悪に勝つことなどできないぞ、ということですね。
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