解説・ダンマパダ(6)「まこと」
◎まこと
【本文】
まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。
これもまあ、読んで字のごとくですね。
でもこれももちろん、いつも言うように、じゃあ、「まこと」とは何かと。つまり悟ってない者が何をもってそれをまことであると知るのかと。
だからやっぱり仏教においてもヨーガにおいても一番最初には信が大事なんだね。まあ、縁と信だね。縁があって、信を持つと。つまり縁があるから、その正しい教えを説いてくれる道と出会うと。でもそれは、最初は半信半疑であると。で、そこで、自分は悟ってないから、本当にこの師匠の言っていることは本当かどうか分からない。でも、ある程度自分が、よし、この人を信じてみようと決めたら、それはもう信じるしかない。で、信じて、何が真実で何が真実ではないかという教えを学んで、修行して、最終的に悟るしかない。
例えば、お釈迦様がいつも言うように……肉体は無常であると。これはまことである。でも世の中の人は、肉体は無常と見ない。まるでこの美しい健康な体が永遠に続くかのような錯覚をしている。これが、まことではないものをまことであると見なすっていうことだね。本当はそれはリアルな真理ではないものを、いやこれこそが本当だと思って生きていくと。これを日々続けていると、最終的にはもちろん真理に達することはない。
だからこれはよく識別智とかいわれるわけだけど、識別智っていうのは、我々は本当に普段からその訓練をしなきゃいけないんだけどね、さあ、これは何が正しいのか、この見方が正しいのか、それともこの見方が正しいのか。あるいは、これをどう見るべきかと。あるいは私が今持っている思いっていうのは正しいのか正しくないのか。こういう識別の智、智性っていうか、これを普段から訓練しないといけない。
ただし何度もいうけど、その基準となるのはやはり教えが必要なんだね。仏典でもヨーガ経典でもいいけど、こういった教えを元に、自分の物の見方っていうのを、しっかり規定しないといけない。
しかしそれを真剣にやろうとすると、かなり辛いです。現世においては。どんどん、なんか、悲しくなってくる(笑)。
例えば今日、これこれの遊びに行くのは正しいのだろうか正しくないのだろうか。これはまことではない、って思ってしまうと、じゃあ行っちゃいけないのか(笑)。……っく……辛いと(笑)。すべてを誤魔化さずに見なくてはいけなくなってしまう。だから相当それは、辛くなってしまうわけだけど、それはまあ、あの、やらなきゃいけないね(笑)。
もちろんやった上で、どうするかっていうのはその人次第だよ。そういう現世的なものと折り合いつけながら修行して生きていくのもいいし、あるいは私はそれらを捨てて修行一筋でっていうのもいいし、あるいはもう一歩進んで、だからこそ我々は彼らを救うために、彼らの中に飛び込んで行って、って考えるのもいいです。だけども、最初の段階で誤魔化しちゃいけないっていうことだね。苦しみは苦しみなんだと。間違っているものは間違っていると。無常は無常だと。その上での話だね。無常のものを無常でないと誤魔化したりとか、あるいはまあ、見ないようにするってのは駄目だと。
例えば、自分の彼女とのこういった現世的な間柄もね、お互いに慈愛がない限りは、破綻するだろう、というのはうっすら分かってはいるが、考えないようにしようと。考えてしまうと、嫌だと。苦しいと。――これはちょっとダメだね。しっかりと考えた方がいい。リアルに考えて、いや、人の心は無常だと。このような、単純な欲望に基づいただけの男女関係ならば、必ず終わりが来ると。さあどうするか。だから別れるのか、もしくは彼女さえも真理に引きずりこんで、もっと神聖な関係になるのか。どちらかしかない、それは。リアルに考えたら。
そういうふうに、誤魔化しじゃなくて、リアルに自分の人生をしっかりと見つめていかないといけない。
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