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「ミラレーパの生涯」第二回(5)

【本文】

 ミラレーパが故郷に着くと、そこには夢で見たとおりの悲惨な状態がありました。母は貧困の中で死に、家はボロボロになり、妹は乞食となって放浪に出ていたのです。
 これを目の当たりにしたミラレーパは、この世の無常性についての確信をよりいっそう強め、瞑想修行に生涯をささげることを決意しました。「もしほんの少しでも現世的な思いが私にわいたなら、守護神よ、そのときは私の命を絶ってください」という恐ろしい誓いを何度も繰り返しながら。
 ある人は、ミラレーパがマルパのもとで教えを受けてきたと聞いて、ミラレーパもマルパと同じように、妻を持ち、家庭を持ち、多くの弟子と信者に囲まれながら教えを説いていく道を歩くといいでしょう、と助言しました。しかしミラレーパはそれに対して、
「それはライオンのしぐさをウサギがまねるようなもので、破滅をもたらす」
と答えました。ミラレーパはあくまでも、マルパの指示通り、生涯、何も持たずに洞窟から洞窟をさまよいながら修行していく道を選んだのです。

 はい。ミラレーパが故郷に行ってみると、夢で見たとおりであったと。ね。お母さんはもう貧しさの中で死んでいて、家はボロボロになっていて、で、愛する妹は乞食になり、放浪に出ていたと。で、これを目の当たりにしたミラレーパは――まあつまりミラレーパはもともと家族への愛着が強かったので、逆にね、これが大変なカウンターパンチみたいになったわけですね。それによって自分の中の、なんていうかな、ちょっと残っていたかもしれない現世への執着みたいなのが崩されたわけだね。まさに無常であると。まさにすべては儚いと。まさにすべては本当に不安定であるのがこの輪廻であるというのを思い知らされたわけですね。それによって、ね、改めてより一層ね、修行に生涯を捧げる決心をしたわけですね。
 そしてここに書いてあるね、「もしほんの少しでも現世的な思いがわたしにわいたなら、守護神よ、そのときはわたしの命を絶ってください」とね。こういう、素晴らしいね、誓いを立てて、修行の世界に入ってったわけですね。
 はい。そしてこのときから、山から山を放浪しながら、ひたすら、一生修行し続ける人生が始まるわけだけども、そこでね、ある人が、ミラレーパがね、マルパの弟子だっていうことを聞いて――まあマルパっていうのは、この当時有名な聖者だったんで、そのマルパのスタイルっていうのは、皆さん知ってるように、ミラレーパとは真逆でね、つまり奥さんがいて、奥さんどころか愛人っていうかな、まあ愛人っていうか、昔のチベットだから実際複数の奥さんといった方がいいのかもしれないけど、複数の奥さんがいて、で、子供もいっぱいいて、で、家も豪華な家に住んで、おいしいものをいっぱい食べて、で、弟子もいっぱいいて、で、それだけじゃなくてまあ畑があったりね、いろんな事業とかもやってたらしいから、大変な事業家であり、お金持ちであり、で、大聖者だと。で、あまり修行の世界を知らない人は、「ああ、あなたの師匠はああいうかたちでね、素晴らしい事業を行ない、家族もたくさんいて、現世を楽しみながら教えを説いてるじゃないですか」と。「だから、あなたは何、裸で山で放浪してんですか」と(笑)。ね。「あなたの師匠はああいう師匠なんだから、あなたも同じ道を辿ったらいいじゃないですか」って言ったわけだけど、しかしミラレーパは、ね、ここに書いてあるように、「いや、それはライオンのしぐさをウサギが真似るようなものであって、破滅をもたらす」と。
 これは何を意味してるのかっていうと、もともとね、密教っていうのは、なんていうかな、ある意味、それまで仏教の常識で駄目だといわれていた――まあ例えばセックスにしろ、あるいは食べ物にしろ、あるいはそうだな、贅沢的なことにしろね、そういった線引きをすべてなくして、逆にそれらすべてを修行として取り入れてしまう道を説いたわけですね。しかしちょっとここで皆さん勘違いしないでほしいのは、そういった煩悩的なことをやれば悟れるって意味じゃないよ。つまり観念的に多くの人にね、いつも言うように、最大公約数的に、これやってれば間違いないっていう教え、これが一般的な仏陀が説いた教えです。じゃなくて密教っていうのは、いや、実際はそれは最大公約数的にはそうなんだが、時と場合によって、条件によっては、本来は悪とされているこれがね、薬になる場合がある。ね。こういう教えなんだね。しかしそれは、もう一回言うと、本来大多数にとって悪となってるものだから、それがほんとに薬になるのか、解脱の道になるのかっていうのは大変な紙一重であって、非常に難しい道であるわけですね。だからよく密教の世界っていうのは、鋭いナイフっていうか、刃物に例えられる。つまりその鋭い刃物を優秀な医者が使ったならば、当然病気を治したり手術をしたりするための素晴らしい道具になる。しかし、無智な子供やあるいはちょっと頭がおかしい人が使ったならば、当然大けがしたりとか、死んじゃう場合があるよね、その刃物によって。それは本来は大変危険なものであると。しかしそれを、なんていうかな、ものすごいまあ優秀なっていうかな、優れた素養を持つ人は、そういったものを逆に道に変えることができる。で、そういったものを柔軟に――もう一回言うけども、大多数にとってはやんない方がいいことも含めて道に取り入れて、で、スピーディーな道の組み立て方をしたのが密教なんだけど、しかし、多くの人たちがそんな資格がないのにそういった真似をして、どんどん破滅してったんだね。これが一時期のチベットやインドで起こったことです。密教の真似ごとをし、ね、煩悩を増大させ、逆に修行の真似ごとによって低い世界に落ちていった人がいっぱいいると。
 でね、これもミラレーパも役割だったと思うんだけど、そうですね、だいたいね、そういったパドマサンバヴァとか、あるいはナーローとかマルパとか、そういったその一見煩悩に見えるようなことをやりながら実際は大変な大聖者であるっていうパターンっていうのは、だいたいマルパぐらいまでなんです。つまりミラレーパぐらいから、まさにそうじゃない、もう現世放棄の道に入ってるんだね。つまりそれはまあ時代が悪くなってきたっていうのも言えるかもしれないけども、ミラレーパはそういう意味でも大いなる、後の人にとってのまあ道しるべとなってると言っていいかもしれないね。
 というのはさあ、ここの場面なんかまさにそうだけどね、もう一回言いますよ。マルパは、ね、煩悩的な道も利用した密教の道をね、たくさんやってったわけだけども、ミラレーパは、いや、それはライオンのね、やり方をウサギが真似るようなもんだから、わたしにはそんなことはできないと。わたしがもしそんな道をとったら破滅してしまうと。だからわたしは一切を放棄し、ね、ただ山から山をさまよい修行するだけなんですって言ったわけですね。ミラレーパでさえそうなんですよ。ね(笑)。だったらわれわれがそんなことできるわけがないよね。
 これはね、いつも皆さんには言ってるけども、皆さんこの――まあ皆さん今こう、曲がりなりにも修行の道を歩いてるわけだけど、まあそうだな、皆さんが将来どういう道を歩むか――皆さん将来一生、ね、カイラスにいるんだったら大丈夫です。っていうか、一生カイラスあるか分かんないけど(笑)。

(一同笑)

 あったとしてね(笑)。一生カイラスにいるんなら、まあ別に問題ないんだけど、じゃなくて将来、ね、この中にはいろんなね、ほかの師のところやほかの修行の道に進む人ももしかするといるかもしれない。その場合ね、この精神世界っていうのは誘惑多いです。誘惑が多いっていうのは、それは正統といわれるチベット仏教やあるいはヒンドゥー教関係でも誘惑が多いです。まあ皆さん、そういう誘惑をもう受けた経験がある人いるかもしれないけどね。つまりこれはまさに今言った話なんだけど、なんのそんな資格もない人が、皆さんに例えば性的なタントラで誘惑してくることがあるかもしれない。実際わたしもそういう話、たくさん聞いています。それは多くの場合、なんていうかな、密教の名のもとに、ね、単に自分の煩悩を肯定したいがためにやってるにすぎない。
 で、もう一回言うけども、ミラレーパっていうのはそういう意味では、なんていうかな、この時代は駄目ですよ、あるいは相当な大聖者じゃないと駄目ですよっていうことを、その点においてもね、われわれに示してくれたのかもしれないなって思うね。
 改めて言うけども、そうですね、密教も、もちろん使える部分はたくさんある。ね。使えるものはたくさんあるけど、性的なものとかあまりにも極端な煩悩肯定の密教は普通はやらない方がいいです。そこまでの器はまだ自分にはないと考えた方がいいね。それは大いなる悪魔の罠だと考えてください。
 極端じゃないっていうのはさ、例えばですよ、「いや、先生、わたし」――ね、例えばTさんとかが「お菓子に執着しちゃうんです」と。「いや、それは別にいいですよ」と。ね。「神に供養すれば逆にそれは徳になりますよ」って言ったとしてね。いやでも例えば、そうだなあ、「テーラワーダのところに行ったら、いや、味覚は捨断しろと言われました」と。「でも先生は味覚を肯定するんですか?」と。「密教ですか?」とか、こういう感じだけど(笑)。いや確かにそれは密教なんです。密教の考え方なんだけど、それは大丈夫です。それくらいは別に問題はない。つまりほんとに心から味覚をね、供養する気持ちで食事をすると。もちろんそこで供養できなかった分はマイナスになる。しかし、まあそんなにマイナスにはならないよね(笑)。ボリボリ食っちゃったとしても、ね、例えば、「はい、Tさん、供養どれだけできました?」「はっ! あ、してなかった!」(笑)。

(一同笑)

 「はい、どれだけできましたか?」「あ、すみません。今、三十分ぐらい食べてましたが、最初の一分だけでした」って言うかもしれないね(笑)。でも、それはしょうがない。でもそれがしょうがないっていうのは、三十分の一しか供養できなかったけど、でも頑張ってればだんだんだんだんね、三十分の二、三、十と増えていくだろうから。で、仮にそのね、半分以上供養できない時間があったとしても、もともとだから、そんなのはね(笑)。もともと普段から食ってたわけだから、そこで生じるデメリットっていうのは、ちょっとサマーナ気のね、お腹の方のエネルギーがちょっと弱まるっていうのと、それからわれわれのね、味覚の――つまり餓鬼のカルマがちょっと強まるっていうくらいであって、まあその程度っていえばその程度ですね。
 でも例えばそうじゃなくて、われわれが、修行全体をね、なんていうかな、甘く見てしまうというかな。煩悩的なことやってりゃ密教はいいんだみたいなね(笑)、そういうちょっと――あのね、ほんとに笑い話じゃなくているんです、そういった人がいっぱい。わたしもよくそういう相談、何度も受けたことがある。これはもちろんどことは言わないけども、「ある団体に行ったら、(煩悩的なことを)こういうふうに薦められたんですけど、どうしたらいいんでしょうか。それは正しいんでしょうか?」っていうのをよく、相談は何度も受けたことがあるけども、それはもう今生ではやめた方がいいね。今生ではっていうか、まあもちろん今生でも将来的に皆さんが大聖者になって、そういう資格を得ることができるときが来るかもしれないけども、それは本当に大聖者になってからの話であって、少なくともベーシックなわれわれの心構えとしてはね、徹底的にまずは、教えどおりに生きると。ね。お釈迦様や、あるいはヨーガの聖者や、あるいはそうだな、聖典に書かれている教えどおりに生きると。ね。あるいは自分の煩悩と戦うと。エゴと戦うと。ね、あるいは過去の悪業を徹底的に浄化するために苦しみに耐えると。あるいは戒律をしっかり守ると。ね、そういったものがちゃんと確立された上で、もしまあそういうカルマっていうかな、そういう使命があるならば、より密教的な道に進む場合はあるだろうけども、まずはやっぱりベースの土台の修行ね、ヨーガにしろ仏教にしろ、土台の修行をしっかり固めるんだという心構えがなくちゃいけないね。
 それは何度も繰り返しますが、ミラレーパを一つのまあ大いなる理想としたらいいですね。もちろんラーマクリシュナとかもそうだよね。ラーマクリシュナなんかも、もう徹底した現世放棄というか、その教えですよね。
 わたしもよくラーマクリシュナには励まされた。励まされたっていうのはさ、まあわたしは何度も言ってるように、中学生ぐらいから修行してきて、で、特に若いころって、修行にも燃えてるけど煩悩もいっぱい出てくるからね。そうするとやっぱり、いろんな本を読んでるとさ、ちょっと煩悩を肯定してもいいのかなっていう教えもいっぱい出てくる。でもラーマクリシュナ読むと、「女と金に少しでも心が向かううちは、神を悟れない」と書いてある。「ああ、やっぱそうか!」と(笑)。

(一同笑)

 あそこまでもう、もう百ゼロで言われてしまうと、「やっぱそうだよね」と。「分かってたんだけど」と(笑)。

(一同笑)

 だからラーマクリシュナにしろミラレーパにしろ、そういう意味ではすごく道を示してくれた感じがする。だからまとめるけど、確かに密教では煩悩を利用する道もあるけども、その前にまずしっかりと煩悩と戦って教え通り生きるっていう道が、それはもうベースとして、われわれには必要なんですね。

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