「安楽の蔵」
【本文】
苦しみから逃れようと願いながら、(衆生はかえって)苦しみに突進する。
楽を得ることを望みながら、惑いのために、まるで敵がなすように、自己の安楽を破る。
かように楽を貪って、たびたび苦しむに悩む人々に対し、あらゆる楽によって満足を与え、またあらゆる悩みを断滅させ、かつ惑いをも滅ぼすところの善人(菩薩)--かような善人に等しい人は、どこにあろう。あるいはそれに類する友、あるいはそれに類する福善は、どこにあろうか。
他から受けた恩に対して報いる人は、はなはだ称賛せられる。求めるところがなくて善行をなす菩薩は、いかにたたえられるべきであるか。
少数の人にもてなしをなす人は、善をなす者として人々に敬われる。しかしそれは、ただしばらくの間、食を施して、半日の命を支えたためである。
ましてや、衆生の数に限定を加えず、期間に限定を加えず、世界と衆生が完全に滅するまで、衆生にあらゆる満足を与える菩薩--彼になぜ尊敬が払われないか。
かく勝者の子にして安楽の施与者である菩薩に対し、己の心の中で悪心を抱く者があれば、その人は悪心の発生した刹那の数と同じ数のカルパの間、地獄に住するであろうと、世尊は説かれた。
しかしその人の心が(菩薩に対して)清らかとなるときは、前(の悪心の結果)に比べて遥かに多くの良い結果が彼に生じるであろう。なぜなら、勝者の子(菩薩)に対する悪しき行いは大いなる努力によって行なわれ、清き行いは自然になされるからである。
そこに優れた宝の心(菩提心)が現われている彼ら(菩薩)の身に、私は帰命する。
また、それに害を加えることさえも、安楽を得ることに関係のある、この安楽の蔵(菩薩)に、私は帰依を表する。
【解説】
すべての衆生は、基本的に、苦しみから逃れたいと願い、幸福を得たいと思っています。それは異論の余地がないところでしょう。
しかし多くの衆生は無智なるがゆえに、望みと行いが転倒しているのです。「これによって苦悩から逃れられる」と勘違いして、より苦悩が増えるようなことを行い、「これによって幸福になれる」と勘違いして、より幸福から遠ざかることばかりやっているのです。
そして菩薩は彼ら衆生に対して、本質的な幸福を与え、苦しみから真に解放し、そしてそもそも衆生の持つ苦しみの根本原因である無智さえも取り除くのだといいます。
そして世の中で、他からの恩に報いる人や、人々に食事をもてなす人などはすばらしいですが、菩薩はそれらとも比べ物にならないといいます。
それは菩薩が幸せを与えるのは、衆生の数に限定を加えず、期間に限定を加えないのだというのです。つまり、500人だけ救おうかとか、一億人だけ救おうかとか、そういう人数限定ではなく、すべての衆生を救おうとしているわけです。そして期間的にも、10年だけとか、100年だけとか、100億年だけとかではなく、すべての魂が完全な安楽(解脱)を得、それによって輪廻が完全に破壊されるまで、衆生の手助けをし続けよう、というのが菩薩の願いと行為なのです。
さて、次からの部分は、この章の締めの部分ですが、深い意味合いがあるところだと思います。
まず、このようなすばらしい菩薩に対して悪い心を持つ者は、地獄に落ちるといいます。
しかしその者が改心したならば、遥かに良い結果が生じるとあります。
そして最後に、菩薩に害を加えることさえ、安楽を得ることに関係がある、となっています。
これは簡単に書きますと、菩薩に悪心を持ったり実際に害を加えたりするなら、ものすごい苦しみの果報が返り、実際に地獄に落ちることもあるかもしれません。
なぜなら菩薩は光が強いからです。また、菩薩を害することで彼の救済活動を阻害したなら、多くの衆生の幸福の邪魔をすることにもなるからです。
しかし菩薩は、悪心に対して慈悲で返す者です。害に対して恩恵で返す者です。
よって--どれくらい時間がかかるかは別にして--菩薩に害を加えたり悪心を持ったりしたとしても、それを条件として、その縁を利用して、菩薩はその人を救済するでしょう。
だから、全く縁がないよりは、たとえ悪縁でも、菩薩とは縁があったほうがいいということになるんですね。
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