危険な本と歓喜な本
最近、書店の精神世界コーナーの前を通ったとき、何気なく目に留まった本を手に取った。
精神世界コーナーに置いてある本は、そのタイトルやコピーからして、わけのわからない、手に取る気すら起きないたぐいのものが多いが笑、そういうものではなく、いわゆる最近よく見かける、インドの現代の覚者といわれる人系の本だ。見るからに本物っぽい雰囲気はあるし、表紙を見てもまともっぽい印象がある。
よって何の偏見も先入観もなく、どちらかというと若干の期待と興味を持って手に取ったが、パラパラとページをめくり、数行に目を通しただけで、おなかに痛みが走った。
そしてほとんど読まずにそっと本を置いた(笑)。
これはわたしはたまにあることで、あるタイプの本を手に取ると、おなか、正確にはおへそのあたりを物理的にぐりぐりとされるような嫌な感じになる。これはいわゆるマニプーラ・チャクラへの反応だ。
マニプーラ・チャクラにはもちろん良い意味合いや働きもあるが、この反応はもちろん悪い意味である。端的にいえば、それはその本、あるいはその著者が、低級の霊的世界、つまり仏教用語でいえば餓鬼(プレータ)の世界と強くつながっていることを示している。
餓鬼というと、おなかが突き出て痩せた化け物のようなイメージがあるかもしれないが、そうではなくもともとは、単に低級の霊的存在やその世界を指す。つまりいわゆる幽霊とか悪霊とか、そのたぐいの世界だ。まあ幽霊とか悪霊という言葉も、ちょっとイメージを限定してしまうかもしれないな。とにかく霊的な世界があって、その中でもあまり高くない領域のことだ。
このおなかのマニプーラ・チャクラは、そういう世界への入り口である。だからここが開き始めると、例えば低い場合は金縛りや幽体離脱、あるいは霊を見たりといった経験が始まる。高いというか進んだ段階では、このチャクラを入り口として死後の世界の経験などをすることもできる。
手に取ってマニプーラ・チャクラにグッとくるような本は、額面上どんな良いことを言っているようでも、著者の見た目がどんなにそれらしくても、低級の霊界につながってる本なので、わたしは読まない。
また別パターンでは、スワーディシュターナ・チャクラにつながっている本も多い。この場合、へそのもっと下、恥骨の上あたりに嫌な痛みが来る。これは低級霊よりもっと低い波動だ。それがどんな意味を持つのかは、長くなるのでここでは言及しないが。もちろんこういう本も読まない。
見るからに怪しい精神世界の本だけではなく、一見まともそうな仏教系やヒンドゥー教、ヨーガ系の本にも、けっこうこういう本はある。
だから、もしまだ師がいない場合は仕方がないかもしれないが、信頼している師がいる場合は、その師の書いたものや推奨しているもの、あるいは明らかに信頼できる聖者などの本以外は、むやみにそういう精神世界や宗教的な本を読まないほうがいいかもしれない。表面上の書いてある言葉以上に、大きな悪影響を受ける可能性もある。
ただ、怪しそうな精神世界や宗教系の本の多くがそういう感じなのかというと、そうではない。逆に、ほとんどの本は、手に取っても何も感じない。読んでみて、「なんじゃこりゃ?」というようなひどい本でも、特にマニプーラやスワーディシュターナに来ない本の方が多い。つまりそれらは「内容もひどいが、パワーもない」本だ(笑)。
だから手に取ってスワーディシュターナ・チャクラやマニプーラ・チャクラに来るような本は、少なくともパワーはあるのだ(笑)。しかしそれが低級霊やもっと低い世界から来るパワーだから、悪影響も大きい。かかわらないに越したことはない。
これはネット上の精神世界や宗教的な文章も同様だ。表面的な文章の内容にかかわらず、マニプーラやスワーディシュターナにグッと来るものがある。そういうものは、何らかの必要性がない以上は読まない。
経験上は、書店ではマニプーラに来るものが多く、ネットではスワーディシュターナに来るものが比較的多い気がする。
さて、もちろん、この逆のパターンもある。
先入観なく手に取って、歓喜が走るような本だ。これはもちろん、素晴らしい本だというサインだ。この経験については前に書いたことがある。
ただし、素晴らしい本のすべてが手に取ってそうなるわけではないというのも面白いところだ。それがなぜかについてはあまり論じる気はないが、簡単に言えばそれはエネルギー等とは別の部分でもうそれが「素晴らしい本」だとわかっているからだろう。
そうではなくて、まったく期待していない本を手に取ったとき、歓喜のエネルギーが走ることがある。これは神々が、「それ、買いだよ」と教えてくれているのかもしれない笑
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