yoga school kailas

すべては心のために

すべては心である。
布施、供養、戒、忍耐、精進、帰依、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、教学、ジュニャーナ・ヨーガ、慈悲、菩薩行・・・

それらすべての仏教・ヨーガなどの修行は、表面的にはその意味合いがいろいろと説明されるが、
究極的には、「心の訓練」のためにおこなわれる。

なぜなら、すべては心だからである。

この話は、おそらく、ほとんどの人が、表面的にしか理解できない。
おそらくこれを読んだ皆さんが今理解しているその理解よりももう一歩深い理解が必要なのだが、
とにかく答えをいうならば、すべては心の訓練のためなのである。

トンレンなどはわかりやすい例である。トンレンは一見、ヒーリングのようなことをやるが、あれはヒーリングではない。トンレンをヒーリングだと勘違いすると逆効果になる。あれはあくまでも、自分の心の訓練のためにやるのだ。

トンレンほどわかりやすくないが、実はすべての修行はそうなのである。自分の心の訓練のためにやっているのだ。

もちろん、すべては心だから、表面的なことはどうでもいいというわけではない。
そういう風に考えると、失敗する。
すべては心だからこそ、誠実にすべてを遂行しなければならないのだ。

誤解を恐れずに言うならば、この世はすべて、心が作った幻である。
よってある一定の心の操作によってのみ、人は幸せになり、またこの幻から脱却できる。
よって聖典の教えや師の言葉は、ないがしろにせずに、従わなければならない。
もしその聖典や師が本物ならば、その言葉には、あなたが考えている以上の――いや、あなたが考えていることとは「全く別」の、強力な狙いが込められているからだ。

そのようにして教えや師に従い、
あなたが「すべては心」の意味をもう少し深く理解したとき、
あなたは真に他者に利益を与えられるようになっているだろう。
そのためには今は目の前の「聖なる課題」に全力を尽くすのだ。

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