2011年4月3日 仙台ヨーガ講習会より
「ハリオーム・タット・サット」
オーム サッチターナンダ パラブラフマ
オーム 絶対の実在・智慧・至福である至高のブラフマンよ
プルショーッタマ パラマートマ
最上の真我、至高の魂よ
シュリーバガヴァティ サメータ
輝ける至高者と、常に共にあれますように
シュリーバガヴァティ ナマハ
輝ける至高者に帰依し奉ります
ハリオーム タット サット
主よ、あなただけが実在です
ハリオーム タット サット
主よ、あなただけが実在です
ハリオーム タット サット
主よ、あなただけが実在です
ハリオーム タット サット
主よ、あなただけが実在です
はい、このマントラの歌、全部覚えられなくても、最後の「ハリオーム・タット・サット」だけでも、いつも唱えたらいいと思います。
特にここに書いてある意味、「主よ、あなただけが実在です」という意味をかみしめながら、「ハリオーム・タット・サット」と唱えるといいでしょう。
特に心が乱れたとき、苦しいとき、不安や怒りや執着に襲われたとき、ハリオーム・タット・サット――主よ、あなただけが実在です、と唱えるといいでしょう。
「主よ、あなただけが実在です」というのは、ヨーガにおける最高哲学です。
ヨーガ等の真理の教えには段階があります。たとえばある段階においては、「この世のすべては幻です」と教えます。しかし最高の真理においては、この世のすべては幻なんじゃなくて、すべては「主」なんです。主というのは、名前は何でもいい。クリシュナでも、シヴァでも、如来でもいいんですが、至高なるお方、至高者、至高なる神、そのただお一人がこの世にいらっしゃる。すべてはそのお方だけなんだと。つまりあの人も、あの人も、好きな人も、嫌いな人も、すべての生き物も、そして私自身も、そして物質も、世界も、そして様々な出来事、良い現象悪い現象含めて、森羅万象、すべては「主」なんだと。主ただお一人だけがいらっしゃるだけなんだと。
その最高の真理から、ヨーギーは、心を常に離さないようにしなきゃいけない。離れそうになったら、唱えてください、「ハリオーム・タット・サット」と。
もちろん我々は目の前の多様な様々な現象に対しては、現実的に、冷静に対処しなきゃいけないよ。それはクールな頭で対処しなきゃいけない。つまり、頭と心は違うということです。心まで、その外的な、多様なる情報の渦に巻き込まれてしまってはいけない。心は常に、何があっても、この多様に見える現象の裏側にある真理、「ハリオーム・タット・サット――主よ、あなただけが実在です」という境地にとどめつつ、クールな頭で、冷静に現象を分析し、情報を処理し、対処するわけです。心まで情報に翻弄されては、決していけない。心の純粋さは、透明で静かで光り輝く湖のような心の状態は、常に保ち続けなきゃいけない。
あるいは菩薩道を行く人は、菩薩の心だね。菩薩の心、ヨーギーの心、そして神のしもべとしてのバクタの心は、決してどんなときでもなくしちゃいけないんだね。
あるいは、次の歌の歌詞にあるように、自分の心の中には常に主がいらっしゃる、と考えるのもいいでしょう。そしてその場合もそれと同時に、目の前のすべての現象を、「主よ、あなただけが実在です」という心で見るんです。
実は東京とかで今ね、実際は全然大丈夫なのに、放射能とかを心配して、不安になったり、実際に関西とかに逃げたりしている人たちがいる。で、この間、横浜の勉強会で話したのが――ちょっとこういう話をすると、不謹慎だと言われちゃうかも知れないけど(笑)――すべてはクリシュナであると。ということは、今話題になっている、あの空を浮遊している放射性物質も、クリシュナ・ゴーパーラだと(笑)。つまりあの赤ちゃんのクリシュナが、ワーっていう感じで、無数に空を舞って、福島から風に乗って東京にいっぱい来てるんだと。日本中に広がってるんだと(笑)。
そう考えたらなんか、和やかな気持ちになるでしょ? 不安は消えて(笑)。
だからといって、原発の問題はどうでもいいっていうことじゃないよ。何を言いたいかっていうと、まずはそれくらいの、おおらかな気持ち、シャーンティと呼ばれる、まさに「主よ、あなただけが実在です」であらわされるような、すべてを認め、すべてを愛し、すべてを受け入れるような心が必要なんです。
そしてその上で、さっきも言ったように、クールな頭で、目の前の現象を分析し、なすべきことをなしていかなきゃいけない。そうじゃなくて、情報や現象や煩悩に惑わされた不安定な心で、目の前のことに対処しようとするとね、表面上は立派なこと言っているように見えても、ダメなんだね。絶対に本質を見誤るし、祝福もない。
だからそれを忘れないようにね、常に「ハリオーム・タット・サット」と唱えたらいいですね。
ではもう一曲、「忘れないで」という曲を歌いましょう。
これはうちで作ったオリジナルの曲なんですが――もともとインドのヨーガでは、こういう神の賛歌とか、マントラの歌とか、教えの歌とかを歌うのも、重要な修行なんですね。でも、マントラの歌はサンスクリット語でもいいんだけど、賛歌とか教えの歌は、やっぱり日本人は日本語のほうが心に響くと思うので、うちでもいろいろとオリジナルの歌を作ってるんです。これはその中でも一番新しい歌ですね。
「忘れないで」
心の中の ヴリンダーヴァンで
いつもクリシュナが 遊んでいるよ
正しく生きなさいと 叫んでいるよ
いつも見守っていると ほほえんでるよ
心の中の ヴリンダーヴァンで
いつもクリシュナが 遊んでいるよ
誰も憎まないでと 叫んでいるよ
すべては僕なんだよと ほほえんでるよ
心の中の ヴリンダーヴァンで
いつもクリシュナが 遊んでいるよ
一緒に遊ぼうと 叫んでいるよ
早くけがれ落として ここへおいでと
心の中の ヴリンダーヴァンで
いつもクリシュナが 遊んでいるよ
正しく生きなさいと 叫んでいるよ
僕を忘れないでと ほほえんでるよ
(質問者)今回の震災があって、心の状態が不安定な感じがずっと続いているんですけど、やっぱりこう、慈悲の瞑想もそうなんですが、その人たちを思うとやっぱり、何て言うんでしょう、慈悲の瞑想してもやっぱり気になっちゃいますし、いつもそういう――亡くなった人たちはどうなるのかとか、魂がのこととか、やっぱりそういうのが気になるというか、そういうのってどういうふうにこう持ってったらいいのかなって・・・・・・何かこう、心が落ち着くようなアドバイスみたいなものをいただけたらなあ・・・・・・と思うんですが。
そうですね――震災の問題に関してはね、今もちろん、まだおさまってるわけでもないし、非常にデリケートな問題なので、あまり気軽に言うことはできないけども、ただあえて言うならばね、ここに集まってる人っていうのはヨーガの先生もいらっしゃるだろうし、先生をしていなくても、ヨーガというものにとても心魅かれてね、頑張ってる人もいらっしゃるでしょう。もちろん今日初めてちょっと興味を持って来たっていう人もいるかもしれないけど。――ヨーギーというのは、つまりヨーガ行者というのは、あるいは女性の場合ヨーギニーですが、ヨーギーっていうのは――さっきも言ったように、われわれの、例えば目に見えるさまざまな浮き沈みや、あるいはさまざまな好き嫌いや、良し悪しや、それから超越したところに、本当はね、常に心をおいていなきゃいけないんだね。
で、個人的な問題でも、みなさんがもし神々に祝福されているとするならば、みなさんの心の未熟さや、あるいは欺瞞的なところを潰し、そして自分の未熟さに気づかされ、そしてまた心を入れ替えさせられるような現象が、個人的にもいろいろ起きます。修行してるとね。つまり修行してて、ちょっと自分が調子良くなってきて、「ああ、自分は結構心が安定してて、神に心が向かってて、悟りに近いかな」とか思ってると(笑)、なんか崩されるようなことが起きて、「ああ、自分はまだまだだった」っていう感じで、また学びを一からやり直していくみたいなことが繰り返されるわけだけども。
だから今回の震災とかもそうですよね。さっきも言ったように、わたし今回初めて東北に、今回のことがあってから来たので、こちらの人のことはまだよく分からないんだけど、わたしがいろいろネットとかで見たりした限りにおいて言うとね、東京とかの人たちの方がパニックになったりしてるんだね、不思議なことにね。別に何も起きてないのに。何も起きてないのに、いろんな情報で、なんかちょっと心が乱れてる人がたくさんいる。で、それはもちろんしょうがない部分はあるかもしれない。つまり心の安定であるとか、あるいは心というのは一番大事なものなんですよっていうところとか、あるいはさっき言ったように、この目に見える現象の裏側に、背景に、もっと大事なものがあるんですよっていうことを、普段考えてこなかった場合ね、当然それはしょうがないっていえばしょうがないよね。そのような不安定な心が露出したにすぎないから。ただ――いいですか?――ちょっと厳しく言うとね、ヨーガの先生ならば、あるいは「われはヨーギー、ヨーギニーである」という者ならば、自分がこんなことで不安定になってちゃしょうがないんだね。
よくね、例えば愛とか、あるいは愛を振りまくとか、あるいはヒーリングとかもそうだけど――これはヨーガでも仏教でもそうなんだけど、原則としてはですよ、振りまくってことは、溢れるくらいの愛――愛というよりも心の喜び。あるいはヨーガ的に言うならば、シャーンティっていうやつですね。シャーンティって呼ばれる安定した心の至福みたいのがあって、初めて振りまけるんだね。
だって、ないと振りまけないじゃないですか。自分もちょっとしたことで不安になって心乱される状況があって、そんな人は当然振りまけないよね。
これは苦しみに対する耐性も同じで――苦しみに対する耐性っていうのは、自分が苦しみに弱いと。何かあるとすぐヘナヘナってなってしまうと。こういう人がですよ、人の苦しみを背負うなんて無理でしょ? 口ではかっこよくなんとでも言えるけども、自分がそんな弱い状態では無理。
つまり、自分は全く何があっても結構大丈夫だと。言ってみれば許容量が大きいと。だからまだ余ってますよと。わたしの心でまだ余りがあるから、みなさんの苦しみもここに入れられますよっていうぐらいにならなきゃいけないんだね。
で、これは理想なわけだけど――これはだから震災に遭われたその全体に言ってるわけじゃなくてね、あくまでもヨーガの道を歩む人に対して言うわけですけども、それくらいの自負心っていうか、それぐらいの正しい誇りっていうかな、それを持たなきゃいけないと思うんだね。「われはヨーギーである」と。「ヨーギニーである」と。
ヨーギーやヨーギニーというのは――ちょっとね、わたしの好きなラーマクリシュナの弟子のヴィヴェーカーナンダの言葉を使うならば、「われらの大将は主である」と。「主」ね。さっき言った至高者。これはシヴァと言ってもいいし、クリシュナと言ってもいいんですけども――「クリシュナこそが、シヴァこそが、われらが大将である」と。で、その大将に付き従って、みんなのね、幸福を願い、みんなに真理の道を、あるいは正しい道を歩むことの素晴らしさを伝えていくのが、ヨーギーやヨーギニーの役割なんだね。
で、それは口先だけでは駄目なんだね。自分がまず完全な安定を得て、あるいは大いなる許容量を心に持った状態を作ってね、で、みんなの庇護処になれるようにしなきゃいけない。
これは何度も言ってるかもしれないけど、わたしの好きな、今言ったヴィヴェーカーナンダとラーマクリシュナの会話でね、昔ヴィヴェカーナンダが、ラーマクリシュナがもう病気で死にそうだったときにね、「ああ、この偉大なる師が死んでしまう。しかしわたしはまだ完全なサマーディとか解脱に達していない」と。で、もう焦っちゃって、師にお願いしに行ったんだね。「師よ」と。「どうかわたしに偉大な完全なるサマーディにいつでも入れるような、そのような素晴らしい力をお与えください」って師にお願いにいったんだね。
そうしたらラーマクリシュナは何て言ったかっていうと、「お前はまだそんなつまらないことを考えているのか!」と。「恥を知れ!」と。ね(笑)。「そんなことよりも、もっと大事なことがある」と。「お前はね、多くの人がその木陰で安らげるような、大いなるバンヤン樹――バンヤン樹っていうインドの木なんだけど――大いなるバンヤン樹となって、多くの人をその霊的な木陰で安らがせるような存在に、お前はなるものだと思っていた」と。「しかしまだお前は自分のことだけを考えている。恥を知れ!」って言って、そこでヴィヴェーカーナンダは心が変わってね、師の意思をくみ取って、師の死後、人々の救済のためにね、走り回ったっていう話があるんですが。
つまりみなさんがヨーギーである、ヨーギニーとしてこの地上に存在するその存在意義というのは――まあこれはいろんな人がいるだろうけど、ストレートに言っちゃうと――「みんなのため」じゃなきゃいけない。「みんなのために自分が存在する」っていう状態でなきゃいけない。その「みんなのため」っていうのは、もう一回言うけども、ただのフィーリングとか理想論じゃ駄目なんです。本当の意味でみんなに振りまけるぐらいの心の安定と、それから溢れるぐらいの至福がなきゃいけないんだね。
で、これはリアルな話として言うけども、もしみなさん一人でもですよ、そういう人がそこに一人いたならば、みなさんが何も語らなくても、あるいはアクションをしなくても、当然その周りの人っていうのは、その溢れ出る至福や安定の恩恵を受けます。
で、もう一つ言うと――あのね、これはみなさんもよくぶつかる問題かもしれない。ぶつかる問題っていうのは、例えばね、特にこういう災害とか起きたときにね、もちろんね、例えば今言ったラーマクリシュナの教団にしろね、あるいはその他いろいろそういったヨーガ系の教団っていうのは、ボランティアとかもよくやるので、災害の復旧の援助とかもよくやるわけですけども――でもね、みなさんもこういうことを考えることがあるかもしれない。「わたしにはそういう力はあまりない」と。あまりないっていうのは、例えば現実的にいろいろ動いてね、いろんな人の看護をするとか、いろいろそのスキルがまだあまり自分にないと。普段から「自分はヨーガ行者だ」とか言って、すごくプライドを持ってるけども、全然誰のためにもならないじゃないかっていう思いにぶつかることがある人はいると思うんだね。そういうのはよく聞くからね。
で、これはね、古からいろんな人がこの疑問にはよくぶつかってきたと思う。例えばこれもラーマクリシュナの弟子のトゥリヤーナンダっていう人の話であるんだけど、トゥリヤーナンダももう本当にすべてを棄てて、一心不乱に瞑想に没頭する修行をしてたんだけど、あるときちょっと疑問にぶつかっちゃって、「わたしはこの社会に対して、何も生産性のあることをやってない」と。「みんながいろいろ働いて社会のためにやってるけど、わたしはひたすら瞑想してるだけで、何のためにもなってないんじゃないか」っていう疑問にぶつかったことがあったんですね。で、それをちょっと悩みながら修行してたら、ある日ある種の悟りを得てね、「いや、そんなことはない」と。つまり――これはインドの考え方としてね、それぞれにはそれぞれの使命があって、やらなきゃいけないことがあると。で、このように――ちょっとストレートに言うとね――一心に神を求めると。一心に悟りを求めると。あるいは一心に真実を求める生き方をする人も必要なんです。そういう人がいて初めて、そっち方面の力が輝きだすと。
だからこの中にはいろんな人がいるだろうけども、自分は本格的にヨーガを学んでいきたいんだと、あるいはヨーガの道を歩んでいきたいんだと思う人は、そのくらいのね、やっぱり自負心は持つべきだと思う。周りの人は別ですよ。周りの人はいろんなカルマの違いがあるから別なんだけど、自分に関してはそれくらいの強さを持たなきゃいけない。で、まだ弱いって感じたら、それは正確な自己認識なので受け入れて、弱いと。だったらもっと強くなろうと。もっともっと自分を鍛えて成熟させていこうと。それこそがヨーガであると。そういうことができなくて何がヨーガ修行か、という感じで自分を鍛えていくきっかけにしたらいいと思うんだね。
だからちょっと質問の答えになってるか分からないけども、ヨーガとかやってない人に関しては、個々それぞれカルマを見てね、いろいろ対応してあげなきゃいけないと思うんだけども、少なくとも自分自身の問題。ヨーガやってる人の自分自身の問題としては、今言ったような心持ちをね、持ったらいいと思いますね。いいですか?
(質問者)はい。ありがとうざいます。
じゃあ他、何か質問ありますか?
(質問者)さっき歌を歌って、初めて聴いて、初めて歌う歌なんですけども、なんであんなに涙が出てきたのかなということを、先生に聞いていいのかな……
それは、あなたがもともと、こういう世界と縁があるからなんだね。
これはだからね、みんなそうなんだけど――あのね、ちょっとぶっちゃけた話で言うと、まあみなさん知ってのとおり、すべてはカルマです。すべてはカルマというのは、因があることしか起こらない。ね。因がないことが起こることはない。これは物理法則もそうなわけだけど、物理法則だけではなくて――われわれはさ、物理法則ではそれをよく理解する。因があって果があると。簡単に言うとさ、お腹が痛くなった。「何でだろう?」って考えるよね。「昨日食ったのがまずかったのかな」とかね。「食い過ぎたかな?」とかね(笑)。あるいは「ちょっと胃腸炎かな?」とか。つまり、因があって果があるんです。この連続性がある。すべてそうです。で、現象の裏側にもそれは働いていて――つまり何を言いたいかっていうと、みなさんが表面的な理由はどうあれ、今ここでこうしてヨーガをやってると。あるいは、それだけではなくて、ムドラーとか高度な呼吸法を教わったり、あるいは神の歌を歌ったりしてると。これは絶対、因がある。つまりみなさんが――言ってみれば過去生から、生まれる前からそういう世界にいた人が、こういうふうに集まってくるんだね。
でもそれは、われわれは小さいころからこの日本で――まだ東北はいいかもしれないけど――わたしも東北育ちだからね。東北生まれだから、東北はまだいいけども――まあそれでも東北とはいえ、現代の教育っていうのは――教育っていうのは学校教育だけじゃなくて、テレビとかそういうのも含めてね、ニヒリスティックな、非常にかっこつけた、疑いの教育をさせられてるんだね。つまり、「物事っていうのは疑ってかからなきゃいかん」と。あるいは「自分というものの体裁を整えて、みんなと同じでなきゃいかん」みたいな教育をされてるから。だからみなさんの中の、本当は小さいころは持っていた、大事な大事な要素が、だんだん消えていくんです。消えていくっていうよりは覆われていくっていうか。
何度かわたし話してるんですが、わたし実は――ちょっと長くなるので、簡単に言うけどね――ちっちゃいころ、本当にちっちゃいころね。幼稚園に入る前とか、虫が殺せない子供だったんです。友達は虫とか殺して遊んでいるんだけど、わたしは死にそうな虫がいると助けてあげたりとか、死んでたりしてると埋めてあげたりとかね。そういう、誰にも教わらずにそういうことをやる、まあ優しい子供だったんだね(笑)。でも、だんだん年を取るに従って――年を取るっていうか、小学生、中学生になるに従って、自分でも覚えてるんだけど、最初のころね、小学校低学年のころ、うちも田舎なんで虫がいっぱい家に入ってくるんだけど、そうするとお父さんがチラシとかを丸めて渡して、「はい、殺せ」って言うんだね。でもわたしは殺せなかったんです、本能的に。殺せなくて、逃がしてあげてた。そうするとお父さんに、「お前、神様みたいなやつだな」とか言われてたんだけど(笑)。でもだんだん、ちょっとずつ嫌々ながら殺すようになってきた。中学生くらいになったら、喜んでやるようになってました(笑)。
で、ちょっとこれ、冗談みたいな話なんだけど、わたし小学生のころ、釣りとかやってて、友達と一緒に。釣りがブームだったんで、釣りとかやってたんだけど――いいですか?――全く釣れませんでした、小学生のころ。でも中学生のころ、バンバン虫とか殺すようになってからは、バンバン釣れるようになりました(笑)。つまり殺生の世界に、わたしが入って行っちゃったんだね。
もう一つ例を挙げると、これも何かに書いたけど、これも子供のころの思い出としてあるんだけど、小学校の低学年のころかな、わたし福島にいたんだけど、福島のあるレストランにお父さんお母さんと一緒に行ってね、で、そのボーイさんみたいな人がわたしの裾にね、何かこぼしたんです。ソースか何かを。で、そのときの子供のわたしの本当に純粋な反応として、パッとそれを隠したんです。で、なんで隠したかっていうと――そのときの自分の発想としてね、「これが見つかったら、ボーイさんがかわいそうだ」と思った。つまり、それによってお父さんとお母さんが抗議するかもしれない。ボーイさん自身も、「あ、やっちゃった!」と。「大事なお客さんの子供にこぼした!」ってすごい嫌な気持ちになるだろうって思って、それを慈悲とかそれ以前の問題で、純粋に「あ、これは駄目だ!」と。「誰にもこれは見せちゃいけない」って感じで隠したんだね。そういう思い出があったんだね。
で、それから月日が流れ、さっき言った高校生ぐらいになったときに、わたしが一人で喫茶店かどこかにいたら、同じことが起こった。つまり、店員の女の子が何か私のズボンにこぼしちゃった。で、こぼして、その女の子が気づかずに行っちゃったんですね。その瞬間、わたしはとっさに、瞬間の反応として、「ちょっと!」って言ったんです(笑)。
(一同笑)
「ちょっと!」――で、「ちょっと、これどうしてくれるんだ!」って言いそうになったんだけど、「ちょっと!」って言ったときに、ピピピピピって思い出したんです。――「おれはけがれてしまった!」と(笑)。
(一同笑)
ね(笑)。あの小学生のころ、無意識に誰も傷つけたくないと思って隠してたのに、今や、「このおれの被害を分かってくれ」と。「お前どうしてくれるんだ!」とまでになってしまったと。「おれはけがれた」と(笑)。
――っていうのはそのころ、もうすでにわたしはヨーガ修行やっていたので、いろいろ教えを学んでたので、だんだんそういうのがいいんだって分かってきていたから――でも、わたしの本能はだいぶけがれてしまったと。
でも、さっき言ったように、掘り返せばあるんだね。これはヨーガの経典――『ハタヨーガ・プラディーピカー』といいますけれども、あの「プラディーピカー」というのは「灯(ともしび)」という意味です。みなさんの中にですよ、修行者としての、あるいは偉大な菩薩としての「灯」が必ずあるんです。その灯火が何かのきっかけで、ちょっとだけ雲が晴れたときに――これはね、うちの横浜とかのヨーガ教室でよくあるんだけど――すごく、例えばですよ、いかついね、あるいはいつも頭が固いね、論理的な人が、まさに今言ったように神の歌を歌ったりすると、「あれ?」って、自分でもよくわからないんだけど涙が出てくる。あるいは、最後にやった慈悲の瞑想とかやってると、なぜか号泣してしまうと。「なんで泣いてるのかわからない!」と(笑)。まさにそれは、自分でも気づかないほどの雲で覆われた心の奥にある灯火が、ちょっとだけ見えてきた瞬間なんだね。だからそれは大事にしてください。
というよりもですよ――これは大事なことなんだけど――「それを大事にしてください」というよりは、それのみを大事にしてください。他のことは、はっきりいってどうでもいいです。
みなさん、ここでヨーガの先生いっぱいいるだろうけど、ヨーガのいろんなアライアンスとかいろんな資格なんてどうでもいいです。あるいは、こういうアーサナができるとかどうでもいいです、はっきり言って。大事なのは、今言ったような灯をいかに大事にし、それを育てていくかなんだね。
で、今言ってるわたしの話っていうのは曖昧に聞こえるかもしれないけども、こういう話っていうのは、みなさんにつかんでもらうしかないんだね。みなさんの中にある本当の意味でのヨーギーの灯火みたいなもの、あるいは神と自分を繋ぐ灯みたいなものを発見して――これはすぐ忘れちゃうからね。すぐ忘れちゃうから、すぐ発見して、それを忘れないように忘れないようにして、大事に大事にそれを育てていかなきゃいけないんです。
だからもし今日そういうふうに感じてね、「なぜか分からないけど、初めて歌った歌に涙がでる」と。これはもう大事な灯です。その感覚を忘れずに、大事にしていったらいいと思う。それのみが――もう一回言うけれども――「ヨーガの核」なんです。「核」です。
もう一回言うけども、みなさんが、かたち上アーサナや呼吸法や瞑想をうまくできても、そんなに大した意味はありません。それよりも今言った、みなさんの中に眠るヨーガの灯をいかに育てるかなんです。
ちょっとこれは人によっては曖昧にしか聞こえないかもしれないけどね。いいですか?
――はい。他、何か質問ありますか? 特にないかな? じゃあ、なかったら、最後にまたもう一つだけ、歌というよりも『シャーンティ・マントラ』ね。『シャーンティ・マントラ』はみなさんもうご存知かもしれませんが、締めのマントラですね。これをまた歌に合わせてね、みんなで一緒に歌いましょう。
(シャーンティ・マントラの歌、合唱)
はい、今はヨーガの締めとして歌いましたが、もう一回歌いましょう。
今度は――これはね、読んで分かるように、衆生の幸せを願うマントラなので、今は普遍的なマントラとして唱えましたが、もう一回は、今度は特別に今回のね、被災に遭われて亡くなった方々、あるいは亡くなっていないけども多くの苦しみを抱えている方々、そういう方々の幸福を願って、もう一回歌いましょう。
オーム ローカーハ サマスターハ スキノー バヴァントゥ
(オーム 世界のすべてが至福になりますように。)
ローカーハ サマスターハ スキノー バヴァントゥ
(世界のすべてが至福になりますように。)
オーム アサトー マー サッドガマヤ
(オーム 偽りから真理へと導きたまえ。)
タマソー マー ジョーティルガマヤ
(暗闇から光明へと導きたまえ。)
ムリティヨールマー アムリタン ガマヤ
(死から不死(アムリタ)へと導きたまえ。)
オーム シャーンティ シャーンティ シャーンティ
ローカーハ サマスターハ スキノー バヴァントゥ
(世界のすべてが至福になりますように。)
ローカーハ サマスターハ スキノー バヴァントゥ
(世界のすべてが至福になりますように。)
オーム サルヴェーシャーン スワスティルバヴァトゥ
(オーム すべての衆生に祝福がありますように。)
サルヴェーシャーン シャーンティルバヴァトゥ
(すべての衆生が平安になりますように。)
サルヴェーシャーン プールナン バヴァトゥ
(すべての衆生が完全になりますように。)
サルヴェーシャーン マンガラン バヴァトゥ
(すべての衆生が幸福になりますように。)
オーム シャーンティ シャーンティ シャーンティ
ローカーハ サマスターハ スキノー バヴァントゥ
(世界のすべてが至福になりますように。)
ローカーハ サマスターハ スキノー バヴァントゥ
(世界のすべてが至福になりますように。)
オーム プールナーマダ プールナミダン
(オーム あれは完全なもの。これも完全なもの。)
プールナートプールナムダチャテー
(完全なものから完全なものは現われり。)
プールナシャ プールナマーダーヤ プールナメーヴァーヴァシシャテー
(完全なものから完全なものが除かれたとき、まさに完全なものが残る。)
オーム シャーンティ シャーンティ シャーンティ
ローカーハ サマスターハ スキノー バヴァントゥ
(世界のすべてが至福になりますように。)
ローカーハ サマスターハ スキノー バヴァントゥ
(世界のすべてが至福になりますように。)
ローカーハ サマスターハ スキノー バヴァントゥ
(世界のすべてが至福になりますように。)
オーム シュリーグルビョー ナマハ ハリオーム
(オーム 輝けるグル方に礼拝いたします。ハリオーム)
はい、では、ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。