yoga school kailas

歓喜のエネルギーの循環の自然な動きと気功、ムドラー

 何度も書いているように、ヨーガや密教等の修行が進み、気道や生命エネルギー、ビンドゥ等が浄化・強化されてくると、体中を歓喜のエネルギーが巡るようになる。
 わたしも調子が良いときはその状態になるが、このとき、基本的にどのように体を動かしても気持ちよいのだが、それでもうまくその歓喜のエネルギーが巡るような体の動かし方がある。そのような動かし方を自然に行なっていると、まるで気功や太極拳や、武術の型などをやっているような動きになる。おそらくそれらの型も、もともとは実際に気が通りまくっていた達人が、自然にその気の流れのままに動かした動きが元になっているのではないだろうか。
 だから逆に、伝統的な気功法などをおこなうとき、この状態でおこなうと、正しい姿勢や動きがわかるようになる。バシッと歓喜のエネルギーが巡るポイントがあるので、それを探しながらやればいいわけだ。

 これは例えばヨーガのムドラーなども同じだ。わたしは若いころ、非常にエネルギッシュで気が充実し、かつ強烈に気が上昇していたとき、よく自然にトライバンダが起きていた。トライバンダとはつまり、下半身から強烈にエネルギーが上がって肛門が自然に締め付けられ、さらにそれが上に上がるときに自然に横隔膜が上に締め上げられ、そして喉が自然に引き締まる。つまり肛門・おなか・喉のバンダが自然に入り、自然に呼吸が止まるのだ。このように自然にトライバンダが起きるようになったとき、それは気が中央気道(背中のスシュムナーではなく体の真ん中の気道。密教でいうアヴァドゥーティ)に入ったあかしだとされる。
 さらに、高度なムドラーでは、トライバンダだけではなくおなかの出し入れをするアグニサーラ・クリヤや、激しい息の出し入れなどが加わったりするが、これらも自然に起きた。つまりわたしはそのころよく、自分の意志とは関係なく、エネルギーの力で、自然に高度なムドラーを行じていたのだ。
 あるいはもっといえば、強烈にエネルギーが上がるときは、自然に目玉がギョロっと上に向き、舌は逆転して上口蓋につくこともある。これらも高度なムドラーのテクニックとしてよく行なわれることだ。
 つまりこれらのムドラーもおそらく、経験が先だったのではないか。つまりヨーガのムドラー行法とは、誰かが論理的に考えたものではなく、気が中央気道に入って強烈に上昇するという理想的な状態に至った達人たちの体に自然に起きた現象を、逆にまだそこまで至っていない者が同じように形だけでも真似することで、同様のエネルギーの流れを作り出そうとしたのかもしれない。

 これはもう一つのムドラー、つまり手印も同じかもしれない。手印も、後世にだんだん様々な教義との関係性が後付けで作られていったかもしれないが、もともとは最も理想的に気が巡りやすい手の形だったのではないだろうか。実際手は、粗雑な肉体においても神経が集まって敏感な部分であるが、気の流れにおいても重要なポイントで、例えば指をぴんと伸ばして手首をそらすだけでも歓喜のスイッチが入る。あるいは強烈に歓喜のエネルギーが上昇しているときは、よくあのラーマクリシュナのサマーディの写真にあるような、人差し指と小指をピーンと伸ばした形に自然になる。親指は閉じる場合と、親指も伸ばす場合がある。これは密教でもよく使われる手印のかたちだ。
 あるいは手をいろいろな形にしたり、それぞれの指と指をいろいろな組み合わせで合わせたりすると、それぞれの形に応じた様々なタイプのエネルギーの通り方をする。わたしはそこを追求したいとは思わないが、それぞれの瞑想に関連付けてそこを追求した人がいたとしても不思議ではないだろう。

 つまり気功などの型、ムドラー等の行法、そして手印等も、その形を修習することを繰り返すことが大事だが、それだけで満足していてはだめで、最終的にはそれらの型の元になっている正解にたどり着かなければならない。

 最近よく、日本の武道や等の言葉で守破離という言葉が取り上げられるが、いろいろ見ていると、この意味を間違った解釈をしている人が多いのではないかと思う。長くなるので詳細は避けるが、型を破ったり型から離れるという段階は、少なくともその型の源になっている境地に到達してからのことである。そこに到達すれば、その型の本当の意味が分かるので、ある程度アレンジしたりできるようになるし、あるいはその道において融通無碍の境地に至れば型は必要なくなるのだ。例えば最初にあげた例でいえば、自在に歓喜のエネルギーが体中を巡る状態にあるならば、その気の流れのままに自由に体を動かせばいいので、わざわざ気を通すための決められた気功等の型の動きをする必要はなくなるということだ。

 話を戻すと、ヨーガや仏教の行法等も、その修習によってその型が導く本来の境地にたどり着かなければならない。そのためにはもちろん様々な角度からの修行が必要になってくるが――やはり最も重要なのはバクティヨーガだと思いますね。いつも同じ結論になりますが(笑)、これは本当のことです。

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