「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(12)
◎自分の肉体はただ神に預ける
今ネットの方でギリシュ――ラーマクリシュナの弟子のギリシュの生涯っていうのをアップしてるけども、ちょっとその最後の方で、素晴らしい場面があってね。ギリシュが最後病気になってね、ちょっとこう重病になるんだけど――まあちょっとこれはあとで載せるので、正確なのはあとで見てほしいと思いますが――ギリシュは高らかに宣言するんですね。何を宣言するかって言うと、「君たちはわたしがこんな病気ぐらい治せないと思っているのか」と。「わたしは治せるんだ」と。「もしわたしがドッキネッショルで――ドッキネッショルって彼の――まあその当時はもう死んでたわけだけど、彼の師であるラーマクリシュナが生涯いた、カーリー寺院ね。カーリー寺院に行って、ドッキネッショルの地面で転がってね、師ラーマクリシュナに心からお願いすればこの病気は簡単に治るんだよ」と、言ってるんだね、ギリシュはね。「しかしわたしはそれをしない」と。「なぜかと言うと、わたしが病気になったのも師の恩寵である」と。「師がわたしのカルマを破壊してくれるために師が病気をお与えくださった」と。そして、「このわたしの肉体っていうのはわたしのものじゃなくて、師のものだ」と。つまり、「ラーマクリシュナに捧げちゃったものだから、だから師の思し召しによって死ぬときは死ぬ」ということをギリシュは言ってるんだね。
ラーマクリシュナも同じようなこと言ってるね。前も言ったけど、ラーマクリシュナが病気になったときに、ある信者がね、「カーリー女神にお願いして、その病気を治すように言ってください」って言ったんだけど、ラーマクリシュナは、「わたしはわたしの心も体も全部カーリー女神に預けてしまったから、わたしの病気を治してくださいなんて、そんなこと言えないんだ」と。
だからこういう発想っていうかな。つまり自分の肉体はただ神に預け、すべて差し出し、その道具として、思し召しによって、生存されたり、殺されたり、あるいは病気になったり、健康になったりしてるだけだと。だからそこに自分が心を乗っけて、「こうなったらいいな」とか、「こうであってほしいな」っていうこと自体が間違いなんだっていうかな。うん。
カリユガだからさ、現代ではやっぱり肉体に対する心わずらいってすごく多いと思うんだね。例えばいろいろあるでしょ? 病気なんじゃないかっていうのもそうだけど、きれいでいたいとかね。太りたくないとかね。いろいろあると思うんだね。だからそういうのからできるだけ離れてください。できるだけ離れて、何度も言うけども――まあつまり、わたしが心煩わせなくても、ね、もしわたしが神にすべて預けてれば、神が一番いいようにしてくださるんだと。そういう発想ですね。わたしがこうじゃないか、ああじゃないかとか考えたってしょうがないと。死ぬときは死ぬし。もし病気が必要なら病気になるし。あるいは健康で何かやらなきゃいけないんだったら健康になるだろうし。そんなことはわたしが心を煩わすものではないっていうかな。うん。だからそれをすごく肝に銘じたらいいですね。