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来世、どこを目指すかについて

以下はメールで個人的にいただいた質問への返答として書いたものですが、皆さんにも利益のある内容なので、簡単にまとめてご紹介したいと思います。

☆衆生救済を目的とする場合、どこに転生するのが最適なのか。

 それはいくつかのパターンがあります。

①色界に報身として転生し、そこから人間界の優れた魂に示唆を送り、導く。
 しかしこの場合は、すぐれた魂にしか示唆を送れません。その優れた魂を使って結果的に救済をするというパターンですね。現場には出動せずに、大局を見ながら現場監督に指示を送る部長みたいなものです。

②最も修行しやすい人間界に生まれ、救済の対象と同じ身体を持ち、手ずからの救済を行なう。この場合は、人間の世界に固定されることによって、本来その魂が持っている崇高な意識を忘れてしまう危険性があります。そうならないように、①のパターンの救済者に手助けしてもらうわけです。
 つまりこの①と②こそが最高の道ですが、これらはどちらが上というわけではなく、どちらも必要な役割であるということですね。

③欲界の天界に生まれ、素質ある天の神々を導く。欲界の天は無智により修行できないと言いますが、もともと正しい教えを学び、ある程度の悟りを得て天に生まれた魂は、天でも修行します。その魂を導く役割ですね。これは苦しむ魂を救うというよりも、もうすでに救われつつある、リーダー候補生たちを教育するような感じでしょう。これも一つの役割だと思います。

④悪趣に生まれて救済する。それぞれの悪趣にも救済者が存在すると経典にはありますが、それはあくまでも、将来のための種まきという意味だと思います。

⑤最後に、最も優れたパターンは、このすべてを包含した形です(笑)。つまり本当の完成は、報身で色界にとどまりつつ、無数の変化身を使って、②~④のすべてを同時にこなすわけですね(笑)。

 ただし我々にはまだ無数の変化身を使うことはできないので、われわれが目指すのは、①~④ということになるでしょう。その中でどれを目指すかは、それぞれのカルマに応じて、めざしたいものを目指せばいいと思います。

 しかし、志向的な問題は抜きにして、論理的に、どこに生まれるのが最も救済の役に立つかといえば、①か②でしょう。つまり色界で報身の救済者となることを目指すか、人間界の救済者となることを目指すかです。
 しかし報身の救済者になるには、高い悟りとともに、相当多くの「救済の経験」を積んでいなければなりません。ということは必然的に、まず今のわれわれが目指すのは、何度も人間界に生まれ変わって、手ずから人々を救う道であるということになります。

 参考までに過去の聖者の例を見ると、

ラーマクリシュナは、自分は衆生のためにまた地上(人間界)に生まれ変わり、そして自分の弟子たちも、好むと好まざるとにかかわらず必然的についてくることになる、と言っています。

クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいては、地上が悪に覆われたとき、何度も人間の姿をとってやってくる、と言っていますね。

ユクテスワは死後幽界(色界)に生まれ変わり、そこの魂を観念界(無色界)に送り込む仕事をしているということですが、彼の場合は、それは神の意思であり、その後に自分がどこに行くかも、すべてはただ神にお任せしている、というスタンスですね。

チベットの聖者チェカワは、地獄の魂を救うために地獄に生まれ変わりたいと願い、生涯、慈悲の瞑想をし続けてきましたが、逆にそれによって、自分の意に反して、仏陀の浄土に生まれ変わったそうです。

また、他のチベットの聖者や上座部仏教の聖者たちも、来世もまた人間界に来て救済をすると言っていた人は多いですね。

この中で、ラーマクリシュナは自らをクリシュナの化身と言っています。それを信じるなら、ラーマクリシュナやクリシュナは別格的存在といっていいでしょう。至高者そのものなのですから(笑)。彼らの意思イコール神の意思ということになります。ですからこの例は今の我々の参考にはなりません(笑)。

その他の例の中で、ユクテスワは「お任せ型」、チェカワは「慈悲型」とでもいえるでしょうか。後者は、神仏にお任せするという気持ちよりも、衆生への慈悲心があまりにも強かったわけですが、でも結果的には神仏の意思に従わざるをえなくなっています(笑)。

未だ至高者の境地にはもちろん達していないわれわれは、このユクテスワとチェカワの例のどちらかを目指すのがいいと思います。つまり来世の転生に関しては、
「すべて神仏(または神仏と同一である師)にお任せします」
か、または、
「衆生を救うために、人間界、または悪趣に生まれたい」
というどちらかのパターンがいいということです。

後者の場合、なぜ人間界または悪趣としたのかというと、チェカワはおそらく理性よりも慈悲が強すぎたのだと思いますし、それはそれで素晴らしいのですが、もし正しく教えを学び、同時に強い慈悲も持っていたなら、ふつうは「最も修行に適した人間界に生まれ、衆生の解放のお手伝いをしたい」となるだろうからです。

まあでもどちらを志向しても結局は「神仏のご意思のまま」になるわけですが(笑)。

☆今生は、修行そのものを目的とすべきなのか、救済そのものを目的とすべきなのか。

段階的に、修行だけする生というのはあります。

しかし救済するだけという生はありません。なぜなら真の慈悲行は自己の修行につながり、真の修行は真の他者救済につながるからです。

つまり、「個人的修行者の道」と「菩薩の道」の二段階があるだけです。

ですから、まだまったく救済に興味がない場合は、自分の解脱だけを求める人生でもいいと思いますが、もし少しでも救済に興味があるなら、もうその段階に入っているのですから、自分の修行によって他に利益を与え、他の救済によって自分の修行を進めるという菩薩の道を行くのが良いでしょう。

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