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「転倒」

【本文】

 私に加害者が現れたのは、私のカルマに駆り立てられたためである。そしてそれによって、彼らは将来地獄に行くであろう。つまりそれは、ただ私が彼らを滅ぼした(地獄へ落とした)ということになりはしないか。

 彼らによって忍耐の修行を行なう私には、多くの罪悪の消滅がある。しかし、私によって彼らは地獄に行き、長い苦痛を受ける。

 私だけが彼らの加害者であり、彼らは私の恩恵者である。卑賤な精神よ、何ゆえに転倒して、怒りを発するか。

【解説】

 自分が過去に犯した悪業によって、自分の中に苦しみのカルマがあるならば、私は将来、必ず苦しみを受けなければなりません。しかしそのためには、その苦しみを与える役割を担ってくれる人物が必要です。そう、それが、今私の目の前に現れた「加害者」なのです。彼は勝手に、私のカルマとは関係なく、現れたくて現れたのではありません。私の悪業の果報、悪の報いというカルマの法則を成立させるために、縁によって現れた存在なのです。
 彼の出現、彼が与えてくれる苦しみを、忍耐の修行によって耐えたならば、私の悪業は消滅し、私は将来、幸福になるでしょう。しかしこの彼は?--彼は私に害を与えたという悪業によって、地獄に落ちるかもしれません。

 そのように考えると、ここで加害者として出現した彼は、自らを犠牲にしながら、私を救ってくれる存在という見方もできるのです!--それなのに、そのように身を呈して自分を救ってくれる恩人に、怒りを発するとは、いったいどういうことなんだ、ということですね。

【本文】

 私が地獄に行かないとすれば、それは私の決意の徳の力である。私が(加害者への報復を差し控えることによって)自身を守護しても、それによって彼らに、いかなる損失が生じるか。

 また、私が害をもって害に報いても、それによって彼らは守護せられない。しかも、私の修行は破れ、その結果、悩める者たちは壊滅してしまうであろう。

【解説】

 他者に苦しみを与えられるということは、自己の中に苦しみのカルマがあるということですが、普通は、そのカルマの報いによって苦しみを受けたとき、再び他者に憎しみを発したり、怒ったり、報復したりしたくなってしまいます。これが、終わらないカルマの輪の中にいるということです。
 しかし真理の教えを学び、カルマの法則を学び、決して他者へ怒りや報復を返さないという決意と実践をなすならば、私はその苦しみのカルマの輪から解放され、地獄から解放されるでしょう。
 しかし--当たり前のことですが--私が相手への怒りや報復をやめることで、相手に生じるデメリットは何もありません。私には大いなるメリットがあり、相手には何のデメリットもないのです。

 また逆に、怒りの心にさいなまれている人は、自己の怒りを正当化するために、「私が報復してあげることで、相手の悪業を浄化してあげるのだ」という傲慢な心を持つかもしれません。しかしそれによって相手が浄化されるということはありません。相手はまた再び、私か、あるいは他の人に怒りを発し、より深い苦しみのカルマの輪の中へ落ちていくでしょう。相手を救うのは、報復ではありません。ただ真理の教え、それだけなのです。

 しかも、そのような報復行為を行なったなら、相手にメリットがないだけではなく、私自身の菩薩の修行も破れ--つまり修行の道から外れてしまうかもしれません。「衆生を救うために菩薩の道を歩こう」と一度でも決意した者が、その道から外れるとしたら、それはその人のみならず、多くの衆生にとって有害です。なぜなら、その菩薩がもし修行を成就したなら、多くの悩める衆生が救われただろうからです。
 ですからこの部分をまとめると、以下のようになりますね。

①憎しみや報復を相手に返さないことにより、私の修行は進み、相手にはデメリットはない。
②憎しみや報復を相手に返すことにより、相手へのメリットはなく、私の修行は破れ、衆生に大きなデメリットがある。

 このようなことを論理的に何度もしっかりと考えて、怒りや報復を相手に返そうという心を捨てるべきです。

【本文】

 心は無相であるから、誰からも、どこにあっても、滅ぼされない。しかし、肉体に愛著するために、心は身の苦しみに悩まされる。

 侮辱、粗暴な言葉、誹謗--これらの全ては、身体を傷つけない。それなのに心よ、いかなる理由で、汝はそれらに怒りを発するか。

 私に対する他人の悪意は、それを私が嫌うほどに、この世あるいは他の世で、私を食い尽くすであろうか。

【解説】

 もともと心と呼ばれるものそのものには実体がなく、形もありません。だから心は、単体では、いかなるものにも苦しめられることはなく、滅ぼされることもないのです。
 しかしひとたびこの心が、何か別の対象に執着したとき--その対象が損害をこうむることで、心もまた、自分が損害をこうむっているかのように、苦しみを味わうのです。
 その最たるものが肉体です。肉体に執着することにより、本来は心とは何の関係もない肉体が傷つくことで、我々は大きな苦痛を感じます。

 しかもたとえば侮辱や悪口や誹謗中傷を浴びたとしても、この場合は、肉体さえも、傷ついているわけではありません。それらの言葉により、何が起きるのでしょうか?--ただ、空気が振動しているだけです(笑)。しかし我々は、悪しき概念によってその空気の振動を捉え、実体のない苦しみを生じさせ、相手への無益な怒りを生じさせます。

 そして最後の一文も、私は好きですね。

「私に対する他人の悪意は、それを私が嫌うほどに、この世あるいは他の世で、私を食い尽くすであろうか。」

--そうです。そんな大したことじゃないんですよ。他人に悪意を向けられ、被害をこうむることに、我々は恐ろしく臆病になり、嫌悪し、恐怖しますが、本来それら他人の悪意や攻撃には、私を壊滅させるほどの力はありません。私を壊滅させるのは、自分自身の中の無智であり、怒りであり、執着であり、嫌悪の力なのです。

【本文】

 それは所得の妨げとなるから嫌うのであるというなら、私の所得はこの世だけで消滅するが、(憎しみによって生じた)罪悪は堅く永続するであろう。

 よこしまに長く生を保つくらいならば、今日死んだ方がましである。生きながらえても、死の苦しみは、私において全く同じであるから。

【解説】

 入菩提行論の面白いところの一つは、さまざまな自問自答により、エゴを追い込んでいく、ヨーガで言うとジュニャーナ・ヨーガのような思索のプロセスが繰り返されているところですね。

 たとえばこの現世において、誰かの悪意により、金銭的あるいは物質的被害をこうむることがあるかもしれません。それでは生きていけなくなるので、私は怒っても構わないのだ、というエゴの反論に対する、智慧の側の答えがまず説かれていますね。

 まあここでは「所得」となっていますが、実際は所得だけではなく、生命そのものも含めた、この生を維持するためのさまざまな条件のことでしょうね。それら生を維持する条件を阻害されるから、私は怒ってもよいのだ、というエゴの主張に対し、智慧の心は、まずこう答えます。

 --怒りによってこの世の物を守っても、死と共にそれらは全て消え去る。
   しかし怒りによって作った悪業は、死しても永く永続するだろう。

--すばらしいですね。このように論理的にエゴを追い込んでいくプロセス、これが思索・識別の瞑想ですね。
 悪業によって生を永く保つというのは、ナンセンスなのです。本末転倒なのです。なぜなら、生きることの価値とは、生きているうちに悪業を減らし、善業を増やし、そしてできれば解脱・悟りを得ることのみだからです。もし生きているだけで悪業を積むだけの人生なら、生きないほうが、つまり死ぬ方がましです。
 しかし実際は、自殺してもまた同じ条件で生まれ変わってしまうので、今ここで智慧をもって心を入れ替えなければなりません。

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