◎誠実さと、観念の放棄
【本文】
『また、たとえ智者であろうと誰であろうと、人は生来の性格に従って行動しようとする。
つまり、人は誰でも生来の傾向に従うので、それに逆らうのは難しい。
人は、感覚の対象に愛著と嫌悪を持つが、そうした感情に支配されてはならない。
なぜなら、この快不快の念は、悟りへの敵となるからだ。
自分本来のものでない義務をうまくやるよりも、たとえ下手でも自分本来の義務をやったほうがいい。
なぜなら、自分本来の義務を果たして死ぬほうが、それ以外の義務を恐る恐るやるよりましだからだ。』
はい。まあ、ここは義務という言葉の解釈になりますが、さっきから言っているように、私はここは神が愛によって与えてくれた今生為すべきこと、あるいは瞬間瞬間為すべきことだと思うね。
それはもしかすると、われわれの利己的知性から見ると、自分に合ってないように感じたりとか、他の人と比べて下手に感じることがあるかもしれない。「それよりもこっちの方いいんじゃないかな」とか思うことがあるかもしれない。でもそういうような、この世における下手とかうまいとか、こっちの方が利益があるような気がするとか、そんなことはどうでもいんだね。じゃなくて、いかに神の意思を実践するかだけなんです。こういう話をするとなかなか厳しいなって感じになるけどね。
だから自分に与えられた神の意思っていうのを誠実にいかに読むかっていうのがあって――で、読んだらそれをいかにこの世の常識とか利己的知性とか自分の観念にとらわれずに、実践しきるかだね。カルマ・ヨーガっていうのはね。
カルマ・ヨーガっていうよりも本当は修行全体もそうなんだけどね。もちろんこの神の意思を普通はわからない。よってヨーガとか仏教の世界では普通はここで、少なくても最初のうちは、師匠っていうのがすごく重要な意味を持ってる。例えばミラレーパとマルパの話みたいに、徹底的に師匠が弟子の修行を進めるためにいろんな仕掛けを行うわけですね。そこで、弟子は師匠を神の、あるいは仏陀の化身と見て、その師匠の言葉を神の言葉だと考えて、実践するわけだね。これはある意味非常に一番簡単な道です。なぜならば、神の意思はよくわかんないけど、とりあえず師匠の言うことを聞いてようかと(笑)。これで師匠が本物であれば、弟子のカルマ・ヨーガは完成される。
だからどのような方法でもいいんだけども、いかに神の意思を誠実に知るか。そして知ったらそれを、一切観念を差し挟まずに実行するか、ということだね。