至高者の祝福(15)
第二章 第10話 アシュターンガ・ヨーガ
至高者は続けました。
「これを実践するだけで、人の心は浄化され、神への道を歩むことができるヨーガについて、これから説明していきましょう。
与えられた義務を懸命に果たし、
禁じられた行為から身を引いて、
自然と得たものを神の意思と考えてそれだけに満足し、
真我を悟った聖者の足を崇拝し、
現世的宗教・富・愛欲のすべてを放棄して、
解脱に向かう義務にこそ喜びを抱き、
定められた量の清い食事をとり、
言葉と行為と心において非暴力を実践し、
真実だけを語り、
盗むことなく、
必要最小限のものしか持たず、
性行為を避けて、
よく苦行を実践し、
心と体の純潔を守り、
聖典を学んで、
神を礼拝し、
無駄話を話さず、
正しい姿勢を保持して、
呼吸をゆっくりと制御し、
感覚を対象から引き戻して、それらを内側へと向け、
心とプラーナをチャクラに固定して、
至高者のリーラ(遊戯)に思いを凝らして、
自分の心を静めていく。
これらのこと、および他の方法によって、人は自分の呼吸を熱心に調節して、悪に慣れ親しむ邪悪な思いを制御し、心を神の念想へと向けていくのです。
まず息を体中に満たし、しばらく呼吸を止め、その後にゆっくりと吐きます。あるいはこの反対の順序でもかまわないでしょう。このようにして気道を清浄にすることで、心は堅固となっていき、興奮状態から解放されるのです。
火と風によって、金塊に含まれる不純物が除かれるように、プラーナーヤーマによって、人の心は直ちに清まっていくのです。
呼吸を調節することで、三種の体質の不調和を解消し、精神集中によって悪業を排除して、プラティヤーハーラによって感覚の対象との接触を中断して、瞑想によって主への汚れた思いを消し去るのです。
このようにして心がヨーガの実習によって純化されたなら、主の姿を念想していくのです。
主のお姿はまことに人の心を魅了し、信者たちに慈悲を与えようと、常に心を配っておられるのです。
主の栄光はまことに賛美するに値し、すべてを聖化してくれるものです。このような主のお姿を、心が揺れ動かなくなるまで、瞑想し続けるべきでしょう。
主の遊戯はまことに目をひきつけるものです。それゆえ人は真摯な信仰心を抱いて、主が立たれ、歩き、座られ、また歩き回る様子を、思い描くようにすべきなのです。
そしてその後、慈悲ゆえに地上に降誕される、化身としての主のお姿に心を集中していきます。
信者たちの苦しみを和らげようと、主が慈悲によって眼から放たれる微笑、そして優美なまなざしを、熱心なバクティの思いで、思い描いていきます。
信者が流した悲しみの涙の海を、その笑みは干上がらせてくれるでしょう。
そして最後に、自分の心の中で、主が笑っておられる様子を思い描き、愛の思いに浸ってそれを瞑想するようにします。主の笑われるお姿は非常に魅力的で、それゆえそれは容易に瞑想できるでしょう。心をそれに捧げつくすなら、もはやそのほかには何も見たいとは思わなくなるでしょう。
人はこのような瞑想を行なうことで、至高者への愛を育てられるのです。彼の心はバクティの中に溶けていき、歓喜によって身体の毛は逆立ち、こみ上げる愛の思いに、涙の海につかってしまうでしょう。
ヨーガを実践して無智と縁を切り、心を感覚対象から引き戻して、喜怒哀楽を超越したブラフマンの境地に自己を確立したなら、その人は最高の真我を悟ることができるでしょう。そして今まで真我に属すると思っていた苦楽の経験は、実際には無智の産物であり、自我意識に付属するものであると理解できるでしょう。
酒に酔った者が、自分の腰に巻かれた布が落ちようが落ちまいが少しも気にならなくなるように、この究極の悟りに至った魂は、自分の肉体が神の意によって動かされ、座ろうが立とうがどう動こうが、それらへの関心をすべてなくしてしまうのです。なぜなら彼は自己の本質を悟ったからなのです。
今や彼の肉体は完全な神の意思のもとにあり、その存在に関するカルマが刈り取られるまでは、その感覚とともに存在し続けるでしょう。そしてサマーディに到達し、真理を会得したその悟れる魂は、夢から覚めた者が夢の肉体を自分と思わぬように、自分の肉体や執着の対象などを、もはや自分のものなどとは思わなくなるのです。
自分の家族や財産なども、自分とは関係のない存在だと理解できるでしょう。無智ゆえに認識されるすべての幻影は、純粋観照者である真我とは全く関係のないものなのです。
主の信仰者は、魂の本質を覆って束縛をもたらす、このプラクリティのマーヤーを、主の慈悲によって克服することで、真我の実在を悟ることが可能となるのです。」
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