「解説『バクティヨーガ・サーダナー』」第二回(4)
はい。「悪い女性との交際」――まあこれはもう当たり前ですけどね。当たり前っていうよりは、まあそうだな、これを――あの、これは何度も言うけども、絶対真理というよりは、原則的な――これは多分、シヴァーナンダがいろんなバクティ系の経典から引っ張ってきたもののまとめなんですけども――だからどういうふうにとるかっていうのは、いろんな解説が解釈があると思いますが――「悪い女性との交際」――これはあの、一つの解釈で言うならば、われわれの、当然、スワーディシュターナ――つまりその性欲を司るスワーディシュターナの、まあけがれというのがある場合ね。で、当然まあわれわれはこの欲望の世界、欲界に生きてるから、まあ食欲とかプライドとかいろんな執着と同時に、当然その性欲っていうのも根本的にあるわけですね。
まあ仏教論で言うと、人間が人間として生まれるときっていうのは、まず性欲で生まれるんです。つまりお父さん、お母さんのどちらかに強い性欲を感じ、で、その相手に対してすごい嫉妬心を感じて、で、子宮に飛び込むと言われている。まあとにかくこの世は、根本に性欲の煩悩があると。で、これを例えば肯定してしまう、もしくはその欲望を、なんていうかな、まあ遊んでしまうというかな。心の中で、その性欲をまあ肯定して楽しんだりとか、そういうことしてしまうと、まあ、なんていうかな、ちょっと簡潔に言うけども――まあ、それが実体があるかどうかは別にして、魔の働きがやってきます。魔の働きがやってくるっていうのは、それはまあ最初はちょっとかもしれないんだけど、その人がこうつかんでるその性欲のそのカルマっていうかな、それに、それをきっかけとして――もう一回言うよ、これは実体があるかどうかは別ですよ。実体があるかどうかっていうのは、本当に悪魔っていうのがいてやってるのか、ただのその流れなのかは別にして、一応今は分かりやすく悪魔って言いますが――悪魔が、その性欲を利用して、その修行者を引きずり下ろそうとするわけですね。で、引きずり下ろそうとするときに、そのさまざまな、なんていうかな、その小さな、いろんなその、まあつじつま合わせの連続により、ここで書かれている、例えば「悪い女性との交際」が始まると。まあそれはいろんな出会いがあるかもしれない。まあここで悪い女性っていうのは、もちろんその人を神から引き離す、あるいはその人の意識を聖なるもの、真理なるものから引きずり下ろすものですね。
で、もちろんこれは欲望から生じるって書いてあるように、何度も言うけども、その人の中に隙があり――つまり神ではない人間のね、その異性に対する……あの、もちろん「クリシュナー!」っていうのはかまいませんよ。――あの、ちょっと話がずれるけど、バクティ、特にこのクリシュナ系のバクティにおいては、聞いたことあると思うけど、あの、全員がクリシュナの恋人なんだね。うん。全員がクリシュナの恋人。つまりあの、男もそうですよ(笑)。男も――つまりその、よくヴリンダーヴァンには男は一人もいないって話があるよね。うん。ヴリンダーヴァンにいる人っていうのは、全員がクリシュナの恋人であると。よって男はいないんだって話があるんだけど。で、このクリシュナ・バクティにおいては、ヴリンダーヴァンだけじゃなくて、そのクリシュナの信者っていうのは全員そのクリシュナの恋人なんだと。だから女性なんだっていう、こう発想があるんだね。まあだから、自分が女性というそのイメージで、「クリシュナ様!」ってこう気持ちになると。まあ、これがクリシュナ系のバクティなんですけども。
まああの、そのような感じだったらいいわけですけど、そうじゃない人間の異性、まあ男性なら女性、女性なら男性に対して、まあ現実的になんか最初なかったとしても、ちょっとでも心を向けると。あるいはちょっとでも、なんていうかな、心の中でそういう欲望のイメージをすると。これが一つの隙になるんだね。これが隙になって――もう一回言うけども、魔がそれを突いて、で、いろんなつじつまを合わせて、最終的になんか悪い女と付き合ってしまう状況ができると。もちろんこれは、女性の場合は男性ですよ。悪い異性と付き合うと。
で、ここで言う「悪い異性」っていうのは、もう一回言うけども、その人と付き合うことによって神から意識が離れる、あるいはエネルギーが下がる、あるいは真理から遠ざかる、こういう異性ですね。で、そんなことは――つまりそんな女性と付き合っちゃ、そんな異性と付き合っちゃいけないなんて当たり前ですよね。普通に考えたら分かる。でも、これが恋愛の怖さですよね。つまり、はまったときにはもう遅い。もう分からなくなる。分からないか、もしくは分かってるけど、あの、まあどうもできないというかな。うん。そういう状態になってしまう。これが恋愛の恐ろしさだね。
だからいつも言うように、その、いわゆるマドゥバーヴァと言われる、神への恋愛的な愛が一番いいんだとよく言われるのは、つまりそれだけ、なんていうかな、他の者を一切振り捨てて、その、そこに自分を結びつける力が、まあ恋愛というか、それにあるっていうことですね。だから、それが神に完全に向けば、これ、最高です。「もうわたし神しかいないから、社会的なこととか、あるいは世俗の執着なんてもう一切どうでもいいんだ」となってしまう。これは素晴らしい。
でもそうじゃなくて、魔の働きによって――もう一回言うけども、悪い異性、つまりわれわれの意識を下げるような異性とくっついてしまった場合、あるいは完全にその、はまってしまった場合ね、われわれの頭はおかしくなる。おかしくなって、あの、なんていうかな、さっきの、神へのマドゥバーヴァと逆ね。つまりその、神や修行も含めて聖なるものも振り捨ててしまう。聖なるものを振り捨てて、目の前のその悪しき異性に心奪われてしまうと。で、これによって、もちろん当然、自分の中の性欲、あるいは異性に対する欲望みたいのが増大し、どんどん悪循環にはまるわけですね。
はい。だからまあここでは、悪い女性、悪い異性って書いてますが、つまりその悪い異性っていうのは、当然その一つの終着点であって、もちろん実際にはその前から始まってるわけですね。
ちょっと話がずれますが、当然その――そうだな、バクティにおいても、修行のほかのヨーガにおいても、できるならば、当然その、異性関係は徹底的に捨断した方がいい。つまりその、まあ恋人も結婚も含めて――まあつまり、神を求めるならば一切捨てなさいっていうわけだけど――ただ、ですよ――ちょっとここから話がずれますけども、あの、今――さっきの話もう一回言うよ。さっきの話っていうのは、「悪い異性とはなんですか?」と言った場合、その異性といることで、あるいはその異性にはまることで、心が神から離れ、意識が下がり、聖なるものから離れていくような異性――これは異性だけじゃないけどね。それは一つの悪いものの一つ定義だよね。何かわわれわれがやることで神からなんか意識が離れたと。あるいは、心がだんだん世俗に向かうと。あ、これはもちろん悪いものだと。これはもちろん、手放さなきゃいけない。で、異性も同じですね。しかし、ということは、つまり逆もあるってことですね。つまりその、もし、その異性と付き合うことによって神に心が向かう、あるいは、聖なるものに心が向かう――こういう異性がいるとするならば、それは付き合うことはオーケーということになる。
あの、ちょっといつも、いつもっていうか何回か例に出して悪いけどさ、Y君とかっていうのはなんかそういう感じがする。まあ何回か言ってるけど、例えばY君はだいぶ前にまあカイラスと縁ができて、でもまあ、たまにしか来ないと(笑)。京都に住んでたからしょうがなかったんだけど、「今度東京に引っ越します」とか言って、引っ越したと思ったら、でもたまにしか来ない(笑)。
(一同笑)
でも、なんか言うことは素晴らしいんだよ、いつも。「もうこれしかない!」みたいに言うわけだけど、たまにしか来ないと(笑)。そういう状況があって、で、あの、Y子さんと結婚したと。うん。そしたらまあ、夫婦で頑張って来るようになったと。あるいはY子さん側から見ても、もちろん――まあもちろん、個人的なことなんで、あの、別にいろいろ言わないけども(笑)――今までのいろんなあの――まあよくあの、ちょっとだけ言うとさ、Y子さんのおばあちゃんからいつも感謝の手紙が来るんです。「あのY子が……」みたいな感じで(笑)。「こんなに変えてもらって」みたいな感じで。つまりまあ、ある、その、ちょっと苦しい時期があったと。で、それがまた――まあY子さんから見たらね、そのY君との出会いによって心が目覚め、まああの、修行一筋の人生になったと。これは当然素晴らしいよね。
もしさ、このなんていうか、ゲームっていうか、この物語がもし――客観的に見たらね――客観的にみたらっていうのは、例えばY君ゲームみたいのがあって(笑)、「はいここで踊りに来る」とかね。「ここでこういうのにはまる」とかいろいろあったとして、選択肢があったとするよ。「はい、Y子さんというのが現われました」と。「結婚しますか? しませんか?」っていう選択肢があって、で、われわれがもし神みたいにその全体像を分かっていたら、当然そこで結婚の方がいいって思うよね。もしこれが分かってたらですよ。あの、そこで結婚することによって、「ああ、そのあとの人生、本当に修行一筋になった」と。ここで結婚しなかったら、そのままあの、なんていうかな、縁だけあって、あまり修行しない人だったかもしれない。Y子さんもあまり修行との縁はなかったかもしれない。これはまあいいパターンなんだね、一つのね。
でもただ、それは分かんないからね。分かんないから、あの、だからもちろん前提としては、もちろん異性っていうのは捨断した方がいい。
あの、もうちょっとおおもとのこと言うとさ――ちょっとこれは現代的にそういうこと言うと、まあ男尊女卑みたいな感じで怒られちゃうんだけど、元々のインドっていうのはもちろん完全な男尊女卑です。あの、こういうの見ても全部修行者は男性中心で書かれている。もう社会においても完全男尊女卑。それがいいかどうかは別にしてね。で、あの、だからインドにおける結婚というのも、元々はそういう意味があるんですね。そういう意味っていうのは、まず女性というのは――まあこれは、もう一回言うけど、昔のインドとかの考え方とかですよ――女性はカルマが悪いと。ね。あの、前も言ったけど、仏教とかでもさ、お釈迦様が説いた仏教の中で、例えば「女性相応」とか、つまり女性について書かれた経典もいっぱいあって、もうめちゃくちゃ書かれてるんだね。うん。「女性の性格の悪さ」とか(笑)。「なぜ女性はカルマが悪いか」とかね。なんかいろんなことがこう、根掘り葉掘り書かれてて。そういう経典もあるくらいで。で、女性というのは、まあ例えばだけどね、嫉妬深く、執着が強く、あるいは平気で人を裏切る。ね。心の中は欲望でいっぱいであるとか、なんかもういろんなことが書かれている。で、あの、社会的地位としても――現代はちょっと違いますけども、まあ現実的に社会的地位も低い状態にあったから、まあそもそもそういう状況に生まれること自体が、女性はカルマが悪いという考えがあった。でももちろん、ヒンドゥー教においても、当然みんなに救いがなきゃいけないから、じゃあ女性の一つの最初の、なんていうかな、希望っていうか救いっていうのは、まさに夫なんだね。夫。つまりその、まず夫が頑張って、男がしっかり頑張って修行して、で、その素晴らしい、その聖なる生活を送っている夫と結婚すると。その夫と結婚することによって、その奉仕を――夫に奉仕をすることによって、あるいはその夫との縁が強くできることによって、まあもともとカルマが悪く、まあ嫉妬深く執着が強い女性がその影響を受けて、あるいは夫を神と見て奉仕することによって徳を積んで、で、どんどん引き上げられていくと。ね、これが、まあなんていうか、理想の結婚だったわけですね。まあこれは、まあ時代が違うので現代にはストレートに当てはまりませんが。
で、もともとその男女関係というか、あるいはその恋愛と結婚がその肯定されるとしたら、まあそれしかないんだね。つまりそれによって、まあ結果的にお互いが神に向かい、あるいは聖なるものに向かい、あるいは悪しきものが断たれるんだったら、これは最高であると。しかし、結果的に表面上いくらきれいごとを言っても、結果的に神から心が外れる、あるいは聖なるものが自分の中から少なくなっていく――このような男女関係は完全に魔の働きであると。捨断しなきゃいけないってことですね。