「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第六回(8)
【本文】
⑪多くの徳を積んだとしても、菩提心を起こさないことは、魔事である。
はい、これも読んだとおりですね。ただこの前提としてですよ、逆の言い方をすると、菩提心を起こすには徳が必要なんです。皆さんこの中で、少しでも「ああ、菩提行素晴らしいな、菩提心素晴らしいな」っていう人がいたとしたらね、あるいは例えばHさん――Hさんはなんか旦那さんとかにいつも「菩薩道よ、菩薩道よ、菩薩になるしかないのよ」っていつも言ってるみたいだけど(笑)。こういうのっていうのはとても素晴らしいんだね。つまりその徳があるんです、もともとね。徳があって皆さんみたいに、曲がりなりにも、ちょっとでもね、「ああ、菩薩道行こうかな」って思える人っていうのは、もともと徳があるんだね。だから逆に――これはいつも言ってるけど、仏教でよく言う魂の上昇パターンとして、まずは徳のない状態からスタートするわけですよね。徳のない魂がいて、で、この魂ともし救済者が出会ったら、まずは徳を積ませることから始めるんです。戒を守らせて徳を積ませると。最初から解脱なんか言わない。とにかく、カルマの法則とかを教えて、「さあ、おまえ幸せになりたかったら、こういう生き方をしなさい」と。それによって、だんだんその人の徳が積まれてくると、さっき言った話と同じプロセスですけどね、まずはこの世でちょっと幸福になる。つまり以前はこの世で苦しいことばっかりだった人が、この世でいろんなことがうまくいきだすと。ね。ある程度人間関係も良くなり、お金もだんだん手に入ってきて、地位や名誉もだんだん得られてくると。
で、ちょっとこれ、実際には長いプロセスなんですよ。長いプロセスっていうのは、いつも言ってる「杜子春」みたいな話ね。つまりその、例えば「いやあ、お金とか、恋愛とか、この世の現世のあらゆることは無常ですよ、意味ないですよ」っていう教えがあったとしてね、実際は、それって本当に経験し尽さないと理解できないんです。つまり、経験してない人にそれをいくら言っても分かんないんです。だって希望でいっぱいだから(笑)。
例えばですよ、恋愛をしたことのない、あるいは女性と付き合ったこともないし、セックスもしたことのない男性がいたとしてね。で、それで修行者みたいに最初から現世放棄してればいいんだけど、じゃなくて、もう悶々としてると(笑)。「付き合いたい、結婚したい、かわいい彼女が欲しい」――悶々としてると。そこに聖者が現れて、「無常だぞ」とか言っても(笑)。「おれはだって付き合ったことがないんだ」と。「今まで全然モテなくて付き合ったこともないし、全くイメージできない」と。「でもそういうドラマとか本とかいっぱい読んじゃったから、そういうね、ほんわかした恋人との生活を楽しみたくてしょうがないんです!」また次の聖者がやってきて、「無意味である」と、「苦である」とか言っても、まったく分からないんだね。で、その人が教えを学んで、頭では理解できるかもしれない。しかし心は納得しません。つまり希望でいっぱいだから。「いや、きっと楽しいぞ」と。「いや、やっぱりこれは一度は経験したい」と。で、その人が一度経験した、一度例えばかわいい奥さんとかをもらったり、いい家庭を経験したとするよ。で、そこで、いろんなそれに伴うデメリットとか、あるいは無常性とかも味わいながら、その経験したとするよ。でもこれってさ、一生くらいかかるでしょ。一生かけて――だってよく心理学では恋愛は三年続かないっていう話もあるけど、でもいろいろこう、自分に思い込ませたりすればある程度続くよね。ある程度なんとなく恋愛とか結婚生活がうまく続くこともあるかもしれない。で、その中でいろんなこともあるだろうけど。でもそのなんていうかな、中途半端な感じで大体終わります。なぜ中途半端で終わるかっていうと、最高の――言ってみればですよ、最高の恋愛を経験していないから。あるいは最高の結婚生活を経験しているわけではないから、希望を持った状態で終わるんだね。うん。つまり、今、結構幸せだけど、でもちょっと苦しいこともあると。でもこれはまだ自分にね、のびしろがあるからだと。つまり、もうちょっといい結婚生活があるはずだと。そのようなその、漠然とした希望を持ちつつ、死んでいくんだね。で、こういうことを何回も生まれ変わって繰り返すうちに、その人はあらゆるタイプの恋愛、あるいはあらゆるタイプというよりは、最高の、思い描ける――つまり恋愛とかセックスとか性に関する、異性問題に関する、もうこれ以上にないだろうっていうくらいの最高の経験をもうしまくって、やっと「意味ねえな」って分かる(笑)。じゃあ、ここに至るまでには、つまりその最高の経験をしまくるだけの徳が必要なんだね。その徳を――徳によって、経験をしまくったあとに、「ああ、全然やっぱり意味なかった」と。
これはね、ミニマムなことで考えれば、皆さんよく分かるかもしれない。恋愛だけじゃなくてね。いろんな成功の状態とかね。あの、わたし個人の話として言うと、これも何回も言ってるけど、わたしはやっぱり前生からの修行の経験としてあったと思うんだけど、おそらくね――小さいころからそういうちょっとこう無常観っていうか、すべては意味がないんじゃないか、というような思いがうっすらとあった。それは一つあったんだけど、もう一つとして、この中で皆さんもそういう人がいるかもしれないけど、わたし子供のころって、あるいはまあある程度大きくなってからもそうだけど、結構うまくいったんです、なんでも。あんまりこの世に興味はなかったんだけど、興味なかったんだけど、興味を持ったことって結構うまくいったんです。例えばその、みんなの中心になってね――わたし、いつも言うように、小学校三、四年生ぐらいの時は、すごいお笑い的な人でね、みんなの中心になって、みんなを笑かしてたんだね。まあ、みんなの人気者みたいな感じになってたと。で、それもわたしの潜在意識の表われだったと思うんだけど。あるいはその、そうだな、いろんな小さな話はいっぱあるね。例えば学芸会とかで、目立ちたがり屋だったから、そういうなんか主役やりたいと思ったらね、まあ主役じゃなかったんだけど、準主役みたいな感じで、やってね、それを自分で満足するとかね。そういったそのいろんな小さな形でいろんなことが叶っていった。で、そのたびに、なんかあんまり意味なかったかなっていう、感覚をこう味わってきたんだね。うん。これはだからわたし個人のことだけども、前生からの修行経験とか、あるいは徳とかのおかげだと思うんだね。
でも、もう一回言うけどもそれがない場合――それがない場合っていうのは――今言ってる話っていうのは、壮大な輪廻の中の話ですよ。輪廻の中で――これはまた別の角度からいうと、いつも言っているように、カルマヨーガとも関わってきます。カルマヨーガっていうのは、単純に徳っていう問題だけじゃなくて、その問題にいかに全力でぶつかるかっていう問題だね。全力でぶつかっている人は、成功にしろ失敗にしろ、大きな経験をします。大きな経験っていうのは、いつも言っているように、例えば夢があったとしたらね、周りからは例えば「いや、そんなの不可能だよ」とか言われて、それであんまり頑張れなくて、悶々と「ああしとけばよかったな」とか言って、一生を終わると。こういう人は何回生まれ変わっても何も経験できないよね。だから成功しても失敗してもいいから、自分がやりたいことにバーッてぶちあたると。いつも例に出すけども、ライブドアの堀江さんみたいにね。「おれは世界一の金持ちになりたいんだ」と。これはさ、仏陀の境地から言ったら、「執着である」とかになるけども(笑)、でも彼の境地、つまりその堀江さんのその状況から言ったら、それがもうまだ乗り越えていない欲望としてあるわけだから、それに全力でぶつかんなきゃいけなかったんだね。で、ぶつかったおかげで彼は、世界一ではないけども、かなり有名になり、多くのお金と、おそらく女性と、それから地位と名誉を手にしたと。しかしその果てに、会社がつぶれ、で、詳しいことはよく分かんないけど、仲間からも裏切られ、で、多くのものを失ったと。これははっきり言うと、堀江さんにとって大きな利益なんです。つまりその、全力で頑張ったから、金持ちの喜びと、そのデメリット。そしてそれが崩れたときの苦しみ。あの人、刑務所も入ったんだっけ? 刑務所か拘置所か分かんないけど牢屋にも入ったと。それを経験できたんだね。もし堀江さんが中途半端な性格だったら、例えば大学時代に「世界一の金持ち!……無理か」と(笑)。ね。「ちょっとあまり危険性のないところで勝負しようか」と。「まあ、だからちょっとある程度いいところ入ってぼちぼちやっていけばいいや」と。でも心の中では、「本当は世界一の金持ちになりてえな、まあでも無理だろう」と。ね。「ぼちぼちやっていきますよ」――こんな堀江さんだったら、そのような素晴らしい楽も、素晴らしい苦も経験できなかったんだね。よって、金持ちになることは意味がない、という経験ができなかった。もちろん堀江さんは今生だけでは駄目かもしれないよ。堀江さんは例えば来生も金持ちになるために頑張るかもしれない。これを十回ぐらい繰り返せば興味なくなります。その大成功と大失敗ね。これはカルマヨーガの考え方ね。
で、これはカルマヨーガっていうのはつまり、その自分の意志の方向性の問題だけども、それだけじゃなくて実際には、功徳ね、実際にこのプロセスを成就させるためには徳が必要なんだね。
もう一回言うけども、貧しいっていうか徳のない人がいて、その人に救済者が徳の積み方を教え込むと。あるいは戒律を守って悪をなさないことを教え込むと。それによってその人の徳は満たされ、徳によって、以前は叶わなっかった欲望が叶いましたと。でもカルマによってそれが破れましたと。で、また頑張って叶いましたと。破れましたと。これを繰り返すうちに、「あれ、意味がない」と。で、この意味がないというところに到達した人こそが、修行の道に入るんです。
はい、修行にももちろん膨大な徳が必要です。仏典には、修行者になるには、神、つまり、天界の神になる徳の十六倍の徳が必要だっていわれている。神ももちろんすごいけどね。天界の神、素晴らしい徳の持ち主だけど、ここに一人の修行者がいるとしたら、少なくともこの神の十六倍以上の徳は持っている。だからなんていうかな、「わたしは解脱したい」って思う人がいるとしたら、それだけの実はもう徳を備えているということですね。それだけの徳を過去において積んできたということです。
で、分かると思うけども、そのただの修行者じゃなくて、菩薩道とか、あるいはバクティヨーガもそうだけど、そのような道を歩む人はより一層の徳が必要なんだね。より一層の徳があって初めて、「菩薩道は素晴らしい」と。「わたしは菩薩になりたい」と思えるんです。――っていうのが前提の話ね。
しかし、徳はものすごく積んだと。しかしそっちの方向にもし心が動いてないとしたら――もちろんそれはいろんなカルマとかタイミングとかあるのかもしれないけども、しかし徳だけ積んで、自分に中の菩提心をどんどん強める方に向かわないとしたら、それはそこに何か魔の働きが働いてますよということですね。ここのところはね。
はい、じゃあ次いきましょうね。