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2015 マハーシヴァラートリ講話より(3)

 はい。じゃあ一応話はこれまでにして、じゃあ最後にまた質問等あったら聞いて終わりにしましょう。はい、じゃあ何か質問その他ある人いますか? 

(Y)五体投地をしていたら、嫌悪が出てきて、それで、懺悔をしながら五体投地をしてたんですけど、その、先生と一緒に、わたしが嫌悪している人も一緒に重なって、こう出てきたんですけど、それでずっと五体投地、懺悔してたんですけど、それはいいんでしょうか?

 ん?

(Y)その、その人に「すみません、ごめんなさい」っていう思いと、先生に懺悔するっていう思いと一緒になってたんだと思うんですけど、重なってても大丈夫ですか? 先生とその嫌悪してる人……。

 それはあの、考え方次第だね。つまりそのイメージが出てきたときに、まさに『忘れないで』とかの歌にあるように、「すべては僕なんだよ」と。ね、一切は至高者あるいはグルの現われであると。だからそれを嫌悪しちゃいけないっていう気持ちでもいいしね。ただそれより、まあそれでもいいんだけど、それよりも、礼拝のときは礼拝に集中した方がいいね、本当はね。懺悔するっていうよりはね。つまりそれによって当然、切れる場合もある。つまりその、「わたしは何をやってるんだ」と。だって帰依なんだと。グルにすべてを捧げてる、礼拝してるのに、そんな嫌悪なんて浮かぶこと自体が、帰依が足りないんだと思ってやるとかね。あるいはね、まあチベット的なやり方だと――これも別にどっちでもいいですけど、チベット的なやり方だと、その人も、あるいは自分の好きな人も、一緒にイメージして、一緒に礼拝してるイメージをします。だから、嫌いな、ちょっと嫌悪してる人を横に置いて、「一緒にやろう」と(笑)。こういうやり方もあるね。これはチベット的なやり方。まあそれでもいいけど、でもまあそれよりは、無心にやることによって、その無意味さっていうかな、に、気付いた方がいいかもしれないね。

(Y)あの、その話とは別に、その、五体投地してると、お腹がすいてきて、五体投地しながら、あの、「食欲より神をとれますように」って思いながら五体投地をしてたときがあったんですけど、それは、それもやめたほうがいいってことですか? 一回食べて……。

 あ、違う違う違う(笑)。あの、基本的な話をするとさ、これも簡潔に言うけど、五体投地っていうのは、まさにそういう感じで、カルマが吹き出ます。うん。で、吹き出ても、帰依をとると。
 つまり何を言いたいかというと、「お腹すいた」――つまりここで選択が生じるわけだね。食事をとるのか、帰依をとるのかと。当然、帰依をとる。あるいは嫌悪が出た。地獄のカルマをとるのか、帰依をとるのか。つまりその、自分の内在してるものが礼拝中にいっぱい出てくる。
 じゃあ簡潔に言うと、当然、地獄のカルマがある人は嫌悪が出ます。あるいは足が痛くなる。うん。
 動物のカルマがある人は、やりたくなくなります(笑)。あるいはねえ、ろれつが回らない。あるいは、そうだな、ろれつと、あとなんて言うかな、まさに何言ってるか分かんなくなる。なんかうまく言えなくなっちゃう。詞章がね。あるいは腰が痛くなる。あるいは膝が痛くなる。このへんは全部動物のカルマです。
 それから餓鬼のカルマは、まさにお腹がすく。あるいはそうだな、別パターンとしては、物欲が出る。あるいはまた全然別パターンとしては、餓鬼は低級霊なので、いろんなその、なんていうかな、霊的な、あまりよくない経験をすると。
 人間界のカルマは当然、情ね。いろんな、「ああ家族、ああお父さん、お母さん」。そういうその情の思いがパーッって出てくる。まあもしくは、物理的に胸がものすごく痛くなる。
 阿修羅のカルマは首とか肩です。つまり肩が痛いとか、あとはわたしもそうだったけどね、こう肩が上がんなくなるんだね、物理的に。
 あの、さっきの動物のカルマもそうだけど、動物のカルマの場合は、もう詞章がまず唱えられないと。「グッ、グッ、グッ、グッ、グル……」。で、やめると普通になるんです。やってるときだけ唱えられない。で、阿修羅も同じで、手が上がんなくなっちゃうんだね。わたしそうだったんだけど。上がんなくなっちゃって、終わって、普通の日常生活では上がるんです(笑)。

(一同笑)

 不思議なんだけどね。うん。あとまあ別パターンとしては喉ね。喉が非常に痛くなる。もしくは、まあ実際に、喉が枯れるとかね。あるいは喉が、すごい声が悪くなるとかね。悪くなるっていうか喉が枯れちゃってダミ声になるとかね。
 はい。天界のカルマ、まあこれはあんまりいないかもしんないけど。天界のカルマが出ると、気持ちよーくなります。まあもちろん、天界のカルマじゃなくて、本当に気が通って、帰依ができてて気持ちいい場合もあるけどね。それは素晴らしい。じゃなくて天界の場合は、ふわふわして、あの、ちょっとこうデーヴァ的なね、ふわふわした気持ち良さの中でやるようになると。
 で、この礼拝のいいところは、じゃあ出たらどうするんですかと。やれと。うん。つまりやってるうちに消えていくんです。うん。つまり嫌悪が出ても、無視して礼拝。足が痛くても無視して礼拝。お腹すいても無視して礼拝。やってるうちに、出ては消え、出ては消えするんだね。うん。その礼拝という一つの行為によって、浄化が自動的に進んでいく。それが素晴らしいんだね。いいですか?

(Y)お腹がすいてるのは、なんかずーっと、ずーっとやってる最中にずーっとあるんですけど、それでも集中しようと努力するってこと……?

 もちろんそうだよ。それは当たり前じゃん(笑)。

(Y)はい。分かりました。はい。ありがとうございました。

(一同笑)

 もう一つ付け加えると……付け加えるっていうかまとめると、シヴァの愛、まあもしくはもちろんシヴァもね、ひっくるめた唯一の至高者の愛。それは当然われわれの本当の――さっき言ったね、誠実なる、そして理想を貫くという意味での苦行、これにまい進することを願っておられる。で、バクタというかな、そのわれわれ側からの気持ちとしては――あの、結局さ、一般的にもそうだけど、幸せっていうのは当然心の問題なわけだけど、ほんとのこの道の修行者の幸せっていうのは、さっきの侍的なのとも通じるんだけど、主のお喜びです。ね。つまり、わたしががんばり、誠実に道を貫くことで、主が喜んでくださったときの、その喜びを見ることが、わたしの最大の歓喜であると。あるいは幸せであると。この感覚ね。これはもちろん、現実としてそうです。ね。それを忘れないようにしたらいいね。それはまさに皆さん自身の最高の幸せになるし、そして当然、そのような生き方をすることを、主も、至高者も願ってらっしゃる――ということですね。

 じゃあこれでマハーシヴァラートリを終わりましょう。ありがとうございました。

(一同)ありがとうございました。

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