「2011年ホーリーマザー生誕祭より」(1)
勉強会講話より 20111217ホーリーマザー聖誕祭
◎母なる神
今日は特にテキストとかはないので、若干だけね、自由にホリーマザーあるいは宇宙の母についてお話しすると、われわれが例えば至高者として崇めるシヴァ、クリシュナ、ラーマ、ヴィシュヌ、こういった存在と、それから母なる神として崇める例えばカーリー、パールヴァティー、ドゥルガー、ラクシュミー、あるいはその現われとしてのシーター、ラーダー、ルクミニー、あるいはホーリーマザー・サーラダーデーヴィーといった存在。この至高者と母なる神、これはもちろん本来は一つなんだね。一つの純粋なる真理なんだけども、それがよくいわれる海と波のような関係として、至高者から現われる力として、この母なる神が現われる。で、この迷妄の世界にいるわれわれから見た存在としては、まさにそれは父と母のように見えるんだね。
この母なる神というのは、例えばこのホーリーマザーの歌詞――今回のこの歌詞もいつもと同じなんですが、作ろうと思って作ったというよりは、曲を聞いて、「あ、この曲にはこの歌詞しかないじゃないか」というそういう感覚で作った――作ったというよりは探したっていうか、発見したっていうか。だからテーマとしてはホーリーマザーがテーマだったというのはあるけども、あまり論理的に考えたわけではない。でもまあ非常にいい歌詞になっていると思うね(笑)。自分で言うのもなんだけども(笑)、とても素晴らしい歌詞になったと思う。
特にこの2番の最初の方ね、「たとえただ一人茨の道行こうとも、マザーがいるから寂しくはない」。これはね、とても深い意味がある。まず修行というのは、これはよく言うように、シヴァーナンダという聖者が言ってるように――精神世界の道というのは、あるいはヨーガや魂の探求の道というのは、決してバラ色の道ではない。ね。それどころか茨の道であると。だから、ちょっとやそっとの覚悟じゃ進めないというかな。こういう話を、修行にあこがれる若者たちにシヴァーナンダという人はしてますけども、まあ実際にそうなんですね。
で、この茨の道っていう意味は、一つはね、もちろん皆さんがイメージするような、例えばカルマの浄化によっていろいろ苦しいことが起こると。あるいは自分の殻を破るときに、いろんな物理的もしくは精神的に苦しいことがあると。それを乗り越えなきゃいけないと。これはもちろんあるよね。これはベースの話としてあります。でもね、もうちょっと深い意味もあるんだね。それは、おそらくそういうのを感じてる人もいるだろうし、これから感じる人も多いと思うんだけども、本当にわれわれが真理を追究し、純粋に追い求め、道を歩いてると――何て言いますかね、ちょっと表現しづらいんですが――つまりごまかしや、あるいは自分というのを規定してる枠組みからどんどん離れていかなきゃいけないので、そうなると、途中でですよ、何とも表現しづらいんだけど、茨の道って書いてあるけども、単に苦しいとかじゃなくて、「何なんだ!」ってうか(笑)、あるいは「どうすりゃいいんだ!」っていうか(笑)――「どうすりゃいいんだ!」でもないね。「どうすりゃいいんだ!」っていうのはちょっと一応の基準点があるけども、基準点すらないっていうか、「何?」みたいな(笑)、なんとも言えないんだけども、一人闇の中に放り出されたような、あるいは何の足場もないところにいきなり放り出されてしまったような感覚に陥ることが、たびたびあると思います。もし皆さんが修行を進めるとね。逆に言うと、そのようなプロセスを踏まないと修行というのは進まない。
これは本当に、拠り所が何もなく、かつ基準もなく放り出されるような感じなんだね。しかし心の中にはもちろん、この道を歩んできた最初の動機である「真理を知りたい」とか、「菩薩になりたい」とか、「神のしもべになりたい」とかそういうのはデータとしてはあるんだけども、でも心としては完全に放り出されたような感覚なんだね。
で、この背後にはもちろん、至高者がいらっしゃいます。至高者がやっているんだね。至高者がわれわれを放り出してるんです(笑)。われわれの背中を押して、この足場のない世界に、真実に繋がる世界に放り出してるんだね。
これはもう一回言うけども、「うわ! すごい足場のない世界に放り出されてしまった! しかしわたしは菩薩だからこれに耐えるぞ!」――でもないんです。この「菩薩だから耐えるぞ!」という喜びすら消えてます。つまり本当に足場がなくなります。本当に足場がなくなって、「何なんだ!?」みたいな感じになるんだね、本当にね。
でもデータはある。データはあるっていうのは、「そうだ! わたしは菩薩になりたかったんだ」と。あるいは「神の道を追求したかったんだ」というデータはある。しかし、心の本質じゃないけども、普段自分が考えていた心の領域みたいなものは、完全に崩れているとうか、偽者というかな、張りぼてみたいなものが全部なくなってしまってるので、非常にある意味ですよ、誤解を恐れずにストレートに言うと、非常に不安で、非常に恐ろしく、あるいはある場合は非常に空しい、どうしようもない状態があるんだね。
これはわたしも何度も経験してきたことなので、もう一回ストレートに言うけども、「何だ! おれはどうなってしまったんだ!」と。「――というよりも、この世界って何なんだ!?」と。「非常に不安であるし怖いし、何したらいいかよく分かんない」と。しかし死ぬわけにもいかない。ね。ある人は多分自殺願望に襲われるでしょう、この段階で。しかし死んでもしょうがない。「どうすりゃいいんだ」と。「やっぱり行くしかないのかな」と(笑)。ね。もう「さあ、おれは修行するんだ! 神と合一する!」みたいな気力もこのときはなくなってます。これは悪い意味じゃなくてね。悪い意味でなくなってるんじゃなくて、そういった規定されたものから外れちゃうんだね。で、放り出されてる。で、ある意味壮絶な意識状態になることがあります。「え!? くそー、これを行かなきゃいけないの?」みたいな。
――そのときにですよ、そのときにある意味希望となるのは、まさにこの母なる神の存在なんです。つまり、父なるっていうか至高者は、われわれをまさに千尋の谷に放り出すようにポーンと放り出して――もちろん至高者もあるいは父なる神もちゃんと導いてくれてるんだよ。導いてくれてるんだけど、でもお父さんはやっぱり厳しいから(笑)、甘い顔は見せずに引っ張ってくれてるんだね。われわれは子供のように闇の中に放り出され、自分で立ち上がらなきゃいけないんだけど、立ち上がるのは自分で立ち上がらなきゃいけないんだけど、しかしそこでふと、「あ、でもわたしには母なる神がいる」と。母なる神が、ここの歌詞にもあるように、最初から最後まで――つまり生まれる前から。生まれる前からっていうのはもちろん今生生まれる前からもそうだけど、わたしという存在がこの宇宙に生まれる前からずっとこの宇宙のすべてを包含し、わたしを見守り導いてくださっているのが、母なる神なんだね。この母なる神がいるから寂しくないと。ね。あるいは苦しくないと。
この寂しくないっていうのは、もう一回言うと、単純に自分は一人だから寂しいとか、そういう意味でもないんです。まさに修行とかヨーガっていうのは、偽者っていうかな、張りぼてを全部壊していく世界なので、壊したときに、つまりわれわれはいかに張りぼてにしがみついてたかっていうことなんだけど、実体のない張りぼてにしがみついてたその張りぼてをどんどん壊していかなきゃいけないので、壊していったときに本当に寂しくなるんだね。寂しいっていうか空しいっていうか、わけの分からない空虚感に襲われたりする。それで進まなきゃいけないんです。それで進まなきゃいけなくて、その自分がしがみついてたものに執着してると、もう苦しくて空しくてたまらないんだけど、じゃなくて、「いや、そもそもわたしはわたしのエゴとかを手放したとしても、一人じゃない」と。「ずっと母なる神が見守っていて下さっている」と。「これからもそれは、ずっと変わらない真実である」と。
これはちょうどね、まさに子供の話と似てるんだけど、例えば子供がいて、お父さんが厳しいとするよ。成長させようとしてお父さんが厳しくいろいろやってくるとしても、ふとお母さんのことを思うと。ね。お母さんはいつもニコニコとわたしを許してくれてると。あるいはわたしのことを家で待っていてくれてると。あるいはいつも何があってもわたしを責めることもなく、わたしのいいところを分かってくれてると。わたしが早く成長することを願ってくださってると。ね。この確信っていうかな、子供的な――つまり子供っていうのは完全にもう――お父さんのことは子供ってさ、誤解することもあるよね。お父さんが成長させようと思って厳しくしてるんだけど、「お父さん嫌だ!」とかこう(笑)、言う子供もいるかもしれないけど――これはあくまでも円満な家庭な場合ですけどね。円満な家庭の場合、お母さんに関しては、特にすごいちっちゃい子っていうのは、完全に明け渡している。完全に全幅の信頼を寄せてるっていうか。「お母さんがわたしを悪くするはずはない」と。ね。「お母さんがわたしを苦しめるはずはない」と。「お母さんはわたしを完全に許し、かつ受け入れ、包んでくれているんだ」っていう確信があるんだね。で、この確信を、われわれがこの宇宙の母に対して持ったならば、まさに、本来だったならば大変過酷な修行の道も、寂しくないし苦しくないんだね。さっき言ったような、皆さんもおそらくこれから経験するであろう心の根本に迫るような寂しさや苦しみを経験したとしても、母なる神っていうのをしっかり心に持っていれば、寂しくない、苦しくない。そんな自分が闇に放り出されたような状況であっても、そのすべてを包含して守ってくださる母なる神がいらっしゃるんだ――っていう感覚ですね。これを今日の祭典の祝福を機にね、皆さんもしっかりつかんでほしいと思うね。