「すべてを転化」
◎すべてを転化
【本文】
七.すべてを大乗の道に転化してください。
これも単純な書き方だけど、最初の「すべての行動は、菩提心という一つの意思のもとに行われなければなりません」というのと、すごく繋がるところですね。
大乗っていうのはつまり、「自分の修行っていうのは人々の幸福のためにやってるんだ」っていう基礎認識がなきゃいけない。だから、何をやっていても大乗の――つまり菩薩道につながるようにしなきゃいけないっていうわけですね。
◎広く行き渡った慈悲
【本文】
八.すべての衆生を包み込み、しかも広く行き渡った慈悲の実践を重んじてください。
これもまたね、同じようなというか、繋がることですけども、慈悲――すべての衆生を包み込み、しかも広く行き渡った慈悲。もともと例えば慈愛とか慈悲といった場合、まあ分かると思うけども、愛着とか愛情とは全く違う。
仏教っていうのはおもしろい教えで、まあちょっと簡単な言い方をすると――「愛を捨てなさい」と。そして「愛を持ちなさい」と言ってる。つまり、愛著は捨てなさいと。で、慈愛を持ちなさいと。――「え? 愛著と慈愛って何が違うんですか?」と。
これはまあ、いろんな言い方があるよね。じゃあ例えば、Tさん、愛著と慈愛の違い、例えば何があります?
(T)愛著は、自分の利益のために人に執着を向けることで、慈愛というのは、一切自分の利益を考えることなく、相手のため、しかも条件によらない愛を持つということ。
そうだね。だから、さっきも言ったように、普通の愛っていうのは――例えば恋愛もそうだし、あるいは家族愛とかもそうなんだけど――表面的にどんなに「あなたのため」って言ってても、根本は自分のためなんだね。自分のため――つまり、自分の魂の奥深くにあるわれわれの心の潜在意識的なものがね、過去から集積してきた間違った経験によって、「おれはこうなったら幸せなんだ!」っていうようなエゴをすごく持ってるんだね。それをなんとか叶えようとしてる。そこから生じる対象への引力というかな、それを愛と言っているに過ぎない。それは、けがれなんだと。それは結局、エゴのためを思ってるに過ぎない。
じゃなくて、完全にその主体を逆転させる。つまり、「『わたし』は全く関係がない。他者のため、あなたのため」と。
例えば、親子関係でいうならばね、「わたしはこの子が大好きで、本当に心から愛してるから、離れたくない」――これは、エゴだよね。愛してるから離れたくない――つまり自分のことじゃん、それ(笑)。自分がこの子を愛してて、離れると苦痛だから離れたくない。
例えばここで条件が一つ出たとして――例えばお釈迦様がやってきて、お釈迦様がその子供にね、「この子は素質があるから、弟子にする」って言って、お釈迦様がその子を弟子として奪って行ったとするよ。実際お釈迦様が現われた時代って、多くの若い素質のある男女が出家してしまったんで、世のお父さんお母さんたちが、「お釈迦様は人さらいだ」と。「わが子を奪ってく!」ってこう非難したっていう話があるんだけど(笑)。例えば、お釈迦様のもとにわが子が出家したと。もう一生会えないかもしれない。ここで、真にこの子を愛してる親だったら、心から喜ぶはずなんです。つまり、「悲しいけど、頑張ってくれ……」――でもないんです。全く悲しくないんだよ。「やったー!」って感じなんです(笑)。「わが子が真理にめぐり合って出家した! やったー!」と。「もう二度と帰ってくるなよ」と。「うちに帰ってきたら、お前は情によって堕落するから、もう絶対帰ってくるなよ! やったぜー!」っていう感じに、ならなきゃいけない(笑)。心からね。
でもそうじゃなくて、「いや、行かないでくれ!」と。実際はそういう例が仏典にいっぱいあるんだね。つまり、お母さんが息子の出家を邪魔する。「いや、いかないでくれ」と。で、実際に息子も情によって修行できなかったりっていうパターンがあるんだね。これは一見、とても愛情に厚い親に見えるけども、実際は自分のエゴのために、エゴをただ実践しているに過ぎない。
まあ、これは一つの極端な例ではあるけどね。つまりそこに、自分がこうしたいんだ、自分の欲求を満足させたいっていうのが一切入らない。相手がどうなるのか。この子が、あるいはこの相手が、どうすれば幸せになるのか。それしか眼中にない。それはフィフティ・フィフティでもなく、百パーセントそうじゃなきゃいけない。これが、大乗の愛なんだね。
で、さっきTさんも言ったけど、しかも条件がない。条件がないっていうのは、「わたしの親だから愛する」「子だから愛する」――これは条件でしょ。そうじゃない。一切条件がない。
で、いつも言ってるけど、条件がないっていうことは――変な言い方だけど――誰でもいいんです。誰でもいいっていうか、つまり、垣根がなくなるから、結局「すべての衆生」になっちゃうんだね。
これも何回か同じこと言ってるけど、例えば、「わたしはわたしの恋人を愛してます」と。「もうそれはエゴではなくて、本当にわたしの恋人のことを、もう全く無条件で愛してるんです」って言う人がよくいる。でも、ちょっと待ってくださいと――まあ、もちろん、わたしは実際には言わないよ。そういう夢を壊すことは言わないけども(笑)――例えば、無料体験とかできて、「わたしはわたしの旦那さんのことを、本当に心から愛してるんです。エゴじゃないんです」――そこで「ちょっと待って」とは実際は言わないけど(笑)、言うとしたら――ちょっと待ってくださいと。今、無条件の愛と言いましたが、無条件ということは、その人じゃなくてもいいはずだと。つまり、なんらかの条件にかなうから、その人を選んでるに過ぎない。
これはまさに、ちょっと極端なきつい言い方をすると、マスターベーションなんです。つまり、「わたしの欲求叶えて!」「あ、ぴったり合いますね――愛しましょう」と(笑)。完全にギブアンドテイクなんだね。
じゃあ無条件だったらどうなるのか。この人じゃなくてもいい――というよりも、この人もこの人もこの人も、平等に愛さなきゃいけない。つまり、無条件の愛イコール平等の愛じゃなきゃいけないんだね。
わたしは昔、若い頃、そういう思考訓練をたくさんした。これも前に言ったけどね、例えば、わたしが男性として、女性のA子さんとB子さんがいて、A子さんのことはものすごい好きだと。例えばその顔も好きだし、性格も好きだし、自分との関係もとても好きだと。ね。で、B子さんがいる。B子さんのことは、ちょっと嫌いだと。顔も嫌いだし、性格も嫌いだし、自分との今の関係もとてもいやな感じがすると。はい、このA子さんとB子がいました。で、わたしはA子さんが大好きで愛し合ってて、で、「生まれ変わっても一緒になろうね」と。これくらいの強い言い方をしていた。A子さんとB子さんが死にました。で、カルマっていうのはいろいろあるから、これはありえない話ではないんだけど、A子さんが来世、そのA子さんの魂は同じなんだけど、B子さんとほとんど同じ顔、性格に生まれて、前のB子さんと自分みたいな関係になったと。で、B子さんの方が今度は前生のA子さんの顔、性格、関係性も同じような感じになった――さあ、どっちを愛しますかと。ね。
それでも、B子さんのようになってしまったA子さんを愛するって言うんだったら、じゃあ最初からB子さんでもいいじゃんと(笑)。つまり、その魂を愛し続ける理由がないんだね。その魂だけを愛し続けるという理由がない。つまりそれは、今言った、顔とか性格とか自分との関係とか縁であるとか、つまり条件が必ず絡んでるんです。
じゃあ条件なくしたらどうなるの?――何度も言うけども、「すべての衆生を愛する」にしかならないんです、絶対に。だからそこで一人でも例外が出たら、もうそれは愛ではないんです。
これも経典に書かれてるんだけど、一人でも例外が出たら、それは愛が破れたことになるから、修行し直しなさいと。つまり――まあ例えば地球の、今七十億いるとしてね、「七十億人のうちの、わたしは六十九億九千九百九十九万九千九百九十九人愛してます」と。「でも、隣の家の吉田さんだけは嫌いなんです」と(笑)。これはもうありえないんです。それはもう愛とはいえないんだね。その時点で、はい、それ失敗ですと。ね。
もちろん、もっと多かったら駄目だよね。「わたしはほとんどの人を愛してるんだけど、隣町の人たちだけはどうも好きになれない」とかね(笑)、それはもう愛とはいえないんだね。
愛は無条件だから、大乗の愛っていうのはね、無条件だから、百パーセントすべての衆生にね――もちろんそれは、人間以外の生き物も含めて、向けられなきゃいけない。
よく動物愛護の人たちとかで、虫は普通に殺す人とかいるけども(笑)、それも全く意味のない話っていうか、それもただのエゴなんだね。つまり、自分の「これがいいんだ!」って思うものにただとらわれているだけであって。
すべての衆生を愛す。しかもそれは、無条件なかたちで愛すっていうことだね。それが「広く行き渡った慈悲」。
あの、前にもちょっと言った話でもあるんだけど、この七つの要点をまとめたチェカワっていう人のすばらしい話で、このチェカワっていう人は、この心の訓練の教えにめぐり合って、もうそれだけを――つまり、この慈悲の教えに基づいて自分の心を変革していくことだけを、もう一生かけてやり続けた。で、その中で自分の実践として、その人は日々ずーっと願ってたことがある。それは何を願ってたかっていうと、来世の話。「わたしは死んだら、地獄に生まれたい」って願ってたんだね。毎日毎日、「わたしは絶対地獄に行くぞ!」と。つまり、地獄の衆生がかわいそうでしょうがない。「だからおれは、絶対に死んだら地獄に行くんだ」と。「地獄に行って、教えを説いて、みんなを救うんだ」と。もちろん地獄に行ったら、自分も苦しいわけだけど、そんなのはどうでもいいと。地獄に行って絶対救うぞ!って十年二十年三十年と経って、チェカワもおじいさんになってね、死期がやってきた。もうそろそろ死ぬっていうときに、もちろんこの人は偉大な聖者だったから、死の直前に自分の来世が見えてきたんだね。そうしたらそのチェカワが泣きながら弟子のもとに走ってきて、「大変だ!」っていうわけです。で、弟子が、「どうしたんですか?」って言ったら、「わたしは一生かけて、『絶対に地獄に行くぞ!』という決意を持って修行していたにもかかわらず、とんでもないことが起きた!」と。「来世、仏陀の浄土に行くのが見えてきた!」と(笑)。「そんなことがないように、どうかわたしが地獄に行けるように祈ってくれ!」と、こう弟子に懇願したっていう話がある。
つまりこれが、広く行き渡った慈悲の思いね。このような意識。このような菩薩の意識を、常に培わなきゃいけない。
もちろん、何度も言うけども、今のわれわれにとってはそのようなすばらしい思いっていうのは理想かもしれない。理想かもしれないけども、できるところから心の広がりをどんどんどんどん広げていかなきゃいけないんだね。
逆の言い方をするとですよ、われわれが修行が進んでるかどうかのバロメーターは、それなんです。さあ、慈悲が増してるかな? 減ってるかな?――だから他の修行は全部補助です。
例えばですよ、「先生、ムドラーで、呼吸が前よりも三十秒止められるようになりました」と。「でも最近、あまり慈悲がわかないんです」と(笑)。ね。それはちょっと修行が後退してるよと(笑)。別にムドラーっていうのは、それによってエネルギー上げたりとか、あるいはエネルギーを強めたり、潜在意識に入って心を変革するための補助としてなきゃいけないわけであって、単にテクニックにこだわって、心の慈悲が狭まっているようだったら、それははっきり言って後退してるじゃないかと。ね。
つまり、何のためにやってるのか。いつも言うように、「エゴの破壊」と「慈悲の増大」。これが、基準になるんだね。さあ、わたしのエゴというのは、以前よりも小さくなってるかな? わたしの慈悲心っていうのは、以前よりも広がってるかな?――これがすべての修行のバロメーターっていうことですね。
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