グル・プールニマ
今日は、一年で最も祝福が強い満月とされるグル・プールニマ(グル(師)の満月)と呼ばれる満月です。
この日は、師がいる人は師に、いない人は古からの偉大なる師方に、供養や感謝を捧げるといいでしょう。
祭壇に供物を捧げたり、心の中で師を瞑想したり、礼拝したり、賛歌を歌ったりするといいでしょう。
またこの日は、新たなる誓いや決意を立てるのに良い日だともされているので、今日からまた新しく生まれ変わる気持ちで、心を新たにして決意や誓いを胸に刻むのもいいでしょう。
そして師への最高の供養と礼拝は、師の教えを実践することであるといわれますので、今日を境に、師の教えを実践し成就することで師の恩に報いることを決意するといいでしょう。
「グル・プールニマのメッセージ」
スワミ・シヴァーナンダ
1957年
「神的人生の輪」
至高なるグル、不死の魂、すべてに遍在しておられる御方に礼拝し奉ります。
神の叡智の聖火をもたらしてくださる御方に礼拝し奉ります。
最高の聖なる大望のために神性なる礼拝の人生を送るすべての真理の求道者に礼拝し奉ります。
すべての気高き努力が達成されんことを。
人間の精神の永遠の不可思議、常に休むことなく不満を抱いている人間の感情的な性質、一時的な生存の不完全さ、満足のいくように人生の問題を解決するための知性の不全。
その人の心を神に向けるために管理しなければならない粗雑な現実から、偉大な理想を切り離す不可解な湾。
神的人生とは、人が神の悟りへと向かって進歩するプロセスであり、相続されるすべての病の治療法を、その人生が提供する。
グルは、道において求道者を導くガイドであり、求道者は神的人生を昇ることにあくせくする巡礼者なのだ。
人間の精神的、道義的な性質の進歩的な精錬は、神的人生の第一の目的である。それは、正直、純潔、そして非暴力のような基礎的な法則、自発的な自制の実践が無意識的に伴うようにする実践、そしてその結果として起こる浄化のプロセスにひたむきになることから始まる。
個々の日々の生活で、これらの三つの基礎的な法則を非の打ちどころのないように実行することは、それ自体が神的人生に必要不可欠な構成要素となる。
人間の性質には二つの側面がある。――肯定的側面と否定的側面である。一方はもう一方より優勢であろうとする。必ずやすべての人の中に、ジキル博士とハイド氏の要素がある。ハイドの要素が優勢になると、人は自分自身と他者に、果てしない欲望と破壊的サディズムのあらゆる悪しき果報を与え、社会的に見捨てられた者となる。しかし人々の中にはジキルの要素が優勢な者たちもいて、彼らは社会に素晴らしい恩恵を与える者であり、自分も他者も皆が平和に暮らすことができる最高のポジションにいる者と見なされる。
肯定的側面が、最終的には否定的側面に打ち勝つのだが、一般には、否定的側面は多くの人々の人生で頻繁に起こる局面において、抑え切れないような影響力を持つ。しかし、理知、分別、思慮、神的人生の道を歩み始めた者たちにとってはそうではない。彼らにおいては、識別的な心が彼らの本能的な部分を征服しようとする。ヴィヴェーカ(識別智)が彼らの行動を導き、ヴァイラーギャ(放棄)が彼らの動機を神聖化し、ムムクシュトヴァ(解脱への熱意)が彼らの努力を鼓舞する。――この三つのそれぞれが、彼らの霊性の部分から強さと光を引き出すのだ。
誠実、純潔、非暴力の道を歩むということは、自制の最高のフォームを暗示しており、低次の自然から生じるすべての否定的な性向を除去するということである。
サティヤ(真実、誠実、正直)とは、言葉の純潔、価値あるものに対する正しい分別、勇気、そして真実であると思った行動を実行に移すことを必然的に示しているが、それは人の物質的な幸福に対して良い結果をもたらすことは全くなく、弊害をもたらすことさえあるだろう。誠実はまた、あらゆる肯定的な道理に従う意志の強さ、正義の分別、平等心、そしてあらゆる生命の中にその微細なエッセンスが遍満していることを認識するということを意味している。
純潔は、すべての否定的なものを肯定的なものに変革する力を必要とする神的人生を測る基準となる。純潔の実践は、自制という言葉によって暗示されているすべてのものと、感情の修練の全範囲を網羅している。それは、シャト・サンパト(六つの功徳)、すなわち心、感覚の制御、平静、忍耐、信、集中の実践を意味する。純潔とは、肉体的そして精神的に純潔ということである。なぜならば、これら二つには相互関係があるからだ。思考の純潔は自然に行為の純潔、そして六つの衝動の昇華につながる。動機、人生すべてにおける純潔は、真理の実践への序章である。
非暴力とは、対抗的な分別という意味における愛である。ここで、禁戒(ヤマ)は再び義務としてかかってくる。非暴力の真意は、それが心の底から――身口意において実践されたときにのみ、完全となる。慈愛、慈悲、友情、友好の原則はすべて、「非暴力」という言葉の中に織り込まれている。これらの原則が完全に実践されない限り、非暴力という善徳はうわべだけのままである。
愛が非暴力の直接の表現である一方、その論理的帰結は奉仕にある。厳しい非難を浴びてきた言葉「愛」――それは、淫らなくだらないことや、利己的な執着、状況的な感傷、感情的な固執、そして多重の自己憐憫へと過度に誤用されている。愛とは、まさに神的人生という庭園にのみ育ち、継続的に面倒を見なければならない稀有な植物であり、それは最高の盛りの中で花を咲かせなければならない。愛と奉仕は分けることができない。ゆえに、他者の気持ちへの理解と、その尊重を持たねばならない。人への愛を持ちながら、他者の苦しみに対して利己的で無慈悲であるというのはあり得ない。無私の奉仕は、行為における神聖なる愛である。
真に実践的修行のありとあらゆるものを網羅している、これら神聖なる生活の三つの基礎的な教義を培い、実践することができるならば、あなたは人間の大望である究極のゴール――真我の悟りへと歩んでいるのである。この道においては、初歩的な成功でさえ、大いに、平安や幸福、存在意義、人間らしい性質の改善、社会的な幸福、そして広大な世界をもたらしてくれる。神的人生の中で非常に重要である「すべては一つである」という正しい智慧は、その実践的な価値と共に、大いに世界平和、団結、友情の促進をもたらすのは間違いないだろう。
ブラフマヴィディヤー(ブラフマンの叡智)は、言い換えれば、神的人生の叡智であり、あらゆる霊性の求道者の中心的な理想である。この中にのみ人類の救済はある。
神聖なるグルの祝福が皆に降り注がれんことを。