「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(9)
【本文】
また、アジャータシャトルパリヴァルタ(アジャータシャトル懺悔(ざんげ)経)では、尊者マハーカッサパが妙吉祥菩薩に、ライオンの子のたとえを述べる。
ライオンの子は誕生して間もなく、まだ力と技が成熟していなくとも、ライオンの子の匂いが風に乗って運ばれると、その風下の動物の群れは、ライオンの子の匂いを恐れ、逃亡する。革ひもでしっかりとつながれた巨大なゾウも、ライオンの子の匂いをかぐと、大いに恐れ、革ひもを引きちぎって逃亡する。
このように菩薩は、たとえその智慧の力が未熟であっても、菩提心を持つや否や、一切の小乗の修行者や解脱者よりも優れ、一切の悪は逃げ去るのである。
はい。あの、インドっていうのは、ヒンドゥー教でも仏教でも、ライオンとか虎を、偉大な菩薩や修行者や、あるいはわれわれの心の本性のたとえとしてよく使うんだね。雄々しい、完全なる、偉大なものの象徴としてね。
はい。で、このたとえは読んだ通りですけども――まだライオンというのは子供であったとしても、その匂いによって、弱い動物たちがね、恐れて逃げていくと。それと同じように、まだ未熟であっても――まあさっきも言ったようにね、まだ本当にけがれでいっぱいで、ちょっと「菩薩になろうかな?」と思っただけの人であったとしてもですよ、それはまさにライオンの子供のようなものです。
これを表わす一つの物語として、これも前にも言いましたが、お釈迦様が昔ね、つまり過去世において、スメーダという名前の菩薩だったときがあって――まあこれは有名な話ですが――定光如来といわれる、昔の如来がいたんですね。で、この如来が、定光如来が、町にやってくるっていうときがあった。町っていうか、その国にやって来ましたと。で、その国中の人たちは、もうすごい、もちろん仏陀が来たわけだから、大歓迎したわけですね。大歓迎して、もう街中をこう、お祭り騒ぎでね、いろいろ飾って、迎え入れたと。で、その定光如来がやって来たときに、人々は帰依と歓迎の印としてね、自分の着てる服を脱いで、道端に置いたんです。つまり、「その上を通ってください」と。足が汚れないようにね、「わたしの服の上を通ってください」って感じで置いたんだね。で、その上を定光如来が歩いてたんだけど、しばらくして定光如来は、みんなの信を試そうと思って、道を神通力で泥に変えたんだね。汚い泥の道に変えてしまった。そしたらみんな服を置くのをやめた(笑)。それも情けない話なんだけど。「ちょっと汚れちゃうから」って言って、置かなくなった(笑)。
で、それを見ていた、そのお釈迦様の前生であるスメーダは考えたわけですね。「みんなはなんて馬鹿なんだ」と。「みんなは真の利益――つまり何が大切で何が大切でないかを全く分かっていない」と。そんな、全く自分にダメージがないようなかたちで、かたちだけそんなことやってもしょうがないと。今こそ、こういうときこそ、真に自分の大事なものを捧げればね、それは最も徳になるじゃないかと。それがわたしのエゴも破壊してくれるし、こんな利益になることをなぜみんなはしないんだ、と。「わたしは本当に心からの供養を持って、供養しよう」と思って、何をしたかっていうと――まあこのスメーダって人は修行者なんだけど、なんと生まれてからね、生まれてから青年期まで、一度も髪を切ったことがなかったんだね。で、その長い髪を頭の上で巻いていた。で、その超長い髪をバッとほどいてね、それを、自分は地面にひれ伏して、バーッて髪を長く道に敷き詰めて、「さあ、どうか定光如来様」と。「この髪の上を通ってくださいませんか?」とお願いしたわけですね。で、この髪を供養することによってね、「わたしも将来仏陀になれますように」っていう発願をしたわけですね。
で、そこを定光如来は通ったわけだけど、そのときに弟子たちにね、言ったわけです。この弟子たちっていうのは、いわゆる阿羅漢、解脱者だったんです。解脱した弟子が、いっぱい周りにお付きとしていたんだけど、彼らに「お前たちは、この髪の上を通ってはいけない。これは如来のみが通れる髪の毛なんだ」って言って、通るんだね。
で、この話は何を意味してるのかと言うと、つまり、この時点で、お釈迦様は解脱してないんです。でも菩薩なんです。でもその定光如来の弟子たちは、菩薩ではないが、解脱してるんです。つまり、この話の言いたいことは、どんな高い智慧を得ていても、未熟な菩薩の方が上なんだってことだね。未熟であっても菩薩の方が上なんだと。
つまり、この今の話と同じね。子供であってもライオンっていうのは偉大であるっていうのと同じように、未熟であっても菩薩っていうのは、自分のことしか考えない修行者や、あるいは他の神々では、はるかに比べものにならないほどの偉大さを有してる、ということだね。
だから、何度も繰り返すけども、皆さんがほんの少しでも心に菩提心を抱いただけでも、それはものすごく偉大なことであって、かつ魔は逃げ去るんですよ、ということですね。
ちょっと話がずれるけども、皆さん、将来的にっていうかな、今もそういう人いるかもしれないけど、魔に襲われることが――修行してるとね、まあ、たまにあります。魔に襲われるっていうのは、あいまいなかたちの場合と、具体的なかたちの場合があるんだけど、あいまいなかたちっていうのは、別になんかヴィジュアル的になんかあるわけじゃないんだけど、現象がね、なんかどんどんこう、自分の煩悩が増大していったりとか、自分の心が、修行とかそういうものから離れていくような、そういう現象がいっぱい起きるときね。これはまあ、自分はよく分からないんだけど魔に襲われてるときです。こういうときとか、あとヴィジュアル的にっていうのは、本当にバーッて魔がやってきて(笑)、ウワーッて襲ってくるときもある(笑)。とにかくいろんなかたちで魔っていうのはやってくると。で、その魔に対する対処法っていろいろあるわけだけど、その一つが、まさに菩提心だね。つまり、魔がやってきたときに――さっきから言ってる、菩提心の灯火を心に宿らせたりとか、あるいはそこで、もう自分のことはあまり考えずに衆生の幸福を願ったり、あるいはまさに、そこで現われてる魔そのものに対する慈悲の心ね――を出したりとかっていうことは、まあ素晴らしい、その魔に対する対処法になるね。
菩提心が嫌いなんです、魔っていうのは(笑)。だから菩提心を発すると逃げていくんです、魔って(笑)。うん。だからそういう力があるって思ったらいいね。
はい。じゃあ次もいきましょうね。