「全智への道」
◎全智への道
(K)サンスカーラが生じるっていうのは、仏教的にいうと、阿頼耶識とか……
あのね、一般にどういっているか分からないけど、私は阿頼耶識=サンスカーラだと思うね。多分ね、普通はそういう言い方されてないと思います。ただ私はそう思いますね。
阿頼耶識っていうのはつまり、後付けなんですよ、あれ。お釈迦様は阿頼耶識とか言ってないし。大乗仏教で阿頼耶識っていう概念が出てきたわけだけど。私はサンスカーラだと思う。あるいは近代的な神智学とかヨーガの世界でいうアーカーシック・レコード。あれも同じです。つまりアーカーシックっていうのは、アーカーシャっていうのは空性のことだけど。空性の世界にあるレコード、記憶領域がありますよと。それはまさにサンスカーラなんだね。だからみんないろんな言葉を使って難しくしてるんだけど、簡単なんです本当は。われわれの心の奥の奥には、記憶領域がありますよと。それにはわれわれがいろんなことで輪廻をしながら生きてきた、すべての情報が詰まってますと。それによってわれわれの今の性格もできているし、あるいはカルマっていうのができてますと。これを止めるしかないんだと。あるいは完全にそれを消化し切るしかないんだと。で、この方法っていうのは、止める方法を使っているわけだね、まずは。
もう一回言うと、真理を直接認識する経験を、何度も何度も重ねて、その強烈なサンスカーラをわれわれの心の奥にインプットすることによって、他のものがどうでもよくなる。これは実際、みんなもそうなると思います。例えば瞑想によって――それが完全な悟りではなかったとしても、ものすごい真理を直接認識する経験を一回二回三回と続ければ、現世の煩悩はどうでもよくなってきます。でもね、それは、少ない場合は長持ちしないんです。例えば、Cさんなんかはそういう例かもしれないね。それはレベルは別にして、瞑想して、「ああ、すべてが分かった」と。「私はこれこれの経験をした」と。「私は全て要らない」とか言いながら、次の日には焼き鳥を食いに行ってると(笑)。もたないと(笑)。つまり焼き鳥のサンスカーラもまだ強いと。
それは逆に言うと、悟りのサンスカーラがまだ甘いんです。もっと奥に行かなきゃいけない。もっと強烈なものがある。それを、より強烈なものを経験し、しかも回数を重ねるごとに、そっちの方が勝っちゃう時が来るんだね。そんな一日二日じゃなくて、よほどの刺激がない限りは、もう現世のものには全く興味がわかないと。よく仏教とかの表現には、まるで吐いた唾のように見えるって書いてあるんだけど(笑)。つまり現世のいろんな、異性のセックスの喜びとか、食べ物とかが、吐かれた唾みたいに見えるから、別に我慢しているわけじゃなくて、もう「なんだそりゃ」と(笑)。近寄りたくもないと。それはだから、それ以上の完全な悟りの素晴らしさを知っているからだね。最初は安定はしてないんだが、そういう悟りの経験の力によって、どんどん現世から離れていく段階がある。最終的に、そのサンスカーラそのものも止まってしまう段階がある。それが無種子サマーディだよって言っているんだね。
(K)無種子サマーディになったら、所知障もなくなるんですか?
今、K君が言ったのは、所知障っていうのは、これは仏教の言葉だけども、われわれの完全な解脱の障害は二つありますと。それは煩悩障と所知障ですと。煩悩障っていうのは、渇愛って言ってもいいんだけど――われわれが間違った執着を持っている。この執着さえなくせば、苦しみはありませんよと。つまり簡単に言えば、煩悩です。煩悩があるから苦しいんだと。で、煩悩はちょっと止めましょうと。これが煩悩障だね。所知障っていうのは、無明と言ってもいい。ここの今の話で言ったら、『ヨーガ・スートラ』の話っていうのはかなり曖昧なんです。これがどこまで言っているかは別なんだけど、今説明したことっていうのは――サンスカーラが止まりましたと。じゃあ無明はどうなってるんですかと。それは止まってるから当然そこから先には行かないけども、次の何か新しい刺激があったりとかしたときに、サンスカーラはどうなりますかと。動くかもしれませんと。これはまだ所知障がある状態だね。
所知障っていうのは、もうちょっと簡単な言い方をすると、全智を得るための障害です。全智――ここでいう全智っていうのは、無明じゃなくて明。つまり何があっても全くすべてをありのままに見れますよっていう状態。これを邪魔しているのを所知障っていうんです。ここで言っているのは、そこまでは言ってない。そこまでのことは、まだ言ってないんだね。一応、輪廻を生じさせる要因はストップしましたよと。でもそれはストップしてるという現象なんです。ありのままに見ているんですか、というのとは関係がない。だからどっちかっていうと、煩悩障の方かもしれない。煩悩障の方はもうなくなりましたと。でも完全に全てをありのままに見る状態が、完成したのかどうかまでは、ここは言っていない。完成している状態もあるだろうし、してない状態も含まれるだろうし。
(K)完成した状態というのが、如実智見ということ……
如実知見はちょっと違うね。如実智見っていうのは、完成じゃないです。如実智見っていうのは、レベルは別にして、一つの悟りの状態だね。
(K)無明を取り払って、全てを……
無明を取り払ったかどうかは分からない。無明を取り払ったかどうかは別にして、少なくとも今の時点において、自分の周りのものをありのままに見たっていう段階。でも次に何にも襲われないかどうかは別ですよと。
Cさんがね、例えばK子さんという最高のパートナーがいるのに、浮気をしたとしますよ。その浮気相手にはまりまくって、でも「いや、この浮気相手は全然駄目だった。K子が最高だった」と気づいたのが、如実智見なんです。
で、仏教って面白くて、如実智見で終わりじゃないんだね。仏教の話でいうと、サマーディに入って、如実智見――つまり気づいて、遠離、離貪、解脱って書いてある。どういうことかっていうと、気づいて、遠離――つまり遠く離れる。離貪――貪りから離れる。解脱しますよと。つまり気づいた後も、遠離・離貪のプロセスが必要なんです。どういうことかっていうと、Cさんが気づいちゃったと。「この相手は駄目だ!」って気づいたけども、離れられない(笑)。ちょっとは。でも気づいちゃったから、離れる努力をして、離れて、解脱するんです。だから如実智見の段階っていうのは、まだ解脱じゃないんだね。で、さっきから言っている、無明が完全にないっていうのは、どんな女が来ても、「いや、私はK子が最高だ。分かっている」と。それは信じてるとか、思い込んでるじゃなくて、完全に分かってると。全く意味ないよ、という状態。これが、無明が完全に晴らされた、全智の状態だね。それには、前も言ったように、単に「止める」じゃ駄目なんです。
じゃあ、このたとえで言うとね、さっきから言っている「止める」っていうのは、少なくとも自分が経験したことだけなんだね。止めてるっていうのは。だから例えば、CさんがA子さんていう人にはまってしまいましたと。このたとえで言うとだよ、A子さんにははまっちゃったけども――例えばしばらくK子さんと離れてたとして、久しぶりにK子さんに会ったと。二回会って三回会ってするうちに、K子さんの素晴らしさがA子さんへの執着を凌駕するときがある。これがさっき言った、智慧のサンスカーラが煩悩のサンスカーラを凌駕する段階なんだね(笑)。
それを繰り返すうちに、もうK子さんの思い出とかA子さんの思い出なんて通り過ぎて、リアルにK子さんの素晴らしさに目覚めるときがあるんです。これがサンスカーラの停止なんです。つまりK子さんは、この話で言うと、リアルなんです。思い出とか関係ないんです。はっと、「あ、おれK子さんしかいないじゃん。」と。「それしか私、ありえないじゃない」っていう、論理が入り込めない世界があるんだね。そこを目覚めてしまったら、サンスカーラはもう――つまり記憶の世界っていうのは止まってしまうんです。それがさっきのたとえで言うと、そうだね。でもこの場合、次の女が来たら、危ないんです(笑)。まだ。
でも、何が来ても絶対大丈夫な段階がある――これが完全な全智だね。ありのままに真理っていうものを分かりきっているから、全く意味がないっていうか、他のものは。
だからすごく難しいんだね。難しいっていうか、壮大なんだね。この話っていうのは。だからお釈迦様も、ものすごい回数生まれ変わって、やっと解脱したっていう話だけど。ものすごい輪廻を超えた世界なんだね。
はい、他、何かありますか? 特にないかな。はい、なかったら終わりにしましょう。ご苦労様でした。
(一同)ありがとうございました。