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バクティの精髄(15)


◎スマラナ

 スマラナとは、24時間、常に至高者を思い続けることである。ここにおいて献身者は、至高者の御名とお姿を、決して忘れることはない。心はただ至高者の栄光を思うことだけに完全に没頭し、それ以外のいかなるこの世の事柄のことも思うことはない。
 心は、神とその美点、御名、栄光などを思い、自分の体のことさえも忘れて、ただ神への思いだけで満ち足りている。ちょうど、ドゥルヴァやプラフラーダがそうだったように。
 ただ神のことだけを思い、神の御名を唱え続けることも、このスマラナのカテゴリーに入る。
 神のことを思うというのは、常に神に関する物語を聞くこと、神について話すこと、人々に神に関する教えを説くこと、神について瞑想することなども含まれる。
 神のことを思うというのは、ある特定の時間にだけなされるのではない。意識がある限り、途切れることなく常に神を思うのである。つまり朝、睡眠から目覚めたときから、夜、睡眠に入るまでの間、ずっと神を心から離さないということである。
 彼にとっては、神を思うこと以外は、この世においてなすべきことは何もない。
 ただ神だけを思い続けることで、すべての世界のサンスカーラを破壊することができる。
 ただ神だけを思い続けることで、感覚対象から心を引き離すことができる。
 通常、心は外側へと向かうが、ただ神を思い続けることで、心は内側に向かう。そして心が神だけで満たされることで、この世の他の対象が心に入ってくる隙間はなくなる。
 この「ただ神だけを思い続けること」は、非情に難しい修行である。普通は、24時間、ただ神だけを思い続けることなどは不可能である。心は、人を欺く。彼は神を瞑想していると考えていても、実際はこの世の様々な対象を夢見ている。
 つまり「神を思う」とは、極度な精神集中による瞑想なのである。よって、ラージャヨーギン(真我への精神集中によって解脱を得ようとする修行者)に必要とされるすべての性質を、スマラナ・バクティを修習したいと思うバクタは得なければならない。
 スマラナとは、マーヤーの河の力強い流れに逆らって泳ぐことである。そしてラージャヨーガがただ真我だけの瞑想に没入するように、スマラナは、ただそこには神しかいないという瞑想に没入するのである。

 真のバクタたちとの交際も、神を思い続ける修行の手助けとなる。
 マハートマ(偉大なる魂)への奉仕もまた、不可欠な実践項目である。
 聖者たちと共にいる間、心は聖なるものを思わずにはいられなくなる。ゆえに、人はサットサンガに参加すべきであり、常に聖者や偉大なるバクタたちと共に暮らすべきである。人は世間からの非難や嘲りに動揺すべきではない。神だけを頼り、神がすべての困難から自分を救ってくださるのだと、神が自分に最終解脱を与えてくださるのだと思って、安心すべきなのである。

 主クリシュナは、ギーターの中でこう言っている。

「おお、アルジュナよ! 私をしっかりと心にとどめ、絶えず私のことを思っているヨーギーは、容易く私に到達し、永遠に私と合一するに至るであろう。」

 ギーターは、九つのバクティの修行法の権威である。主クリシュナは毅然として、バクティのさまざまな修行法は人を至高者へと導くと述べている。

 主を嫌悪によって思い続けたとしても、その者は解脱を得る。ちょうどイモムシが蜂への嫌悪や恐怖から、蜂をずっと考え続けることによって、蜂と同じ状態(成虫)になっていくように。カンサやシシュパーラのような主を嫌う者たちは、ヴァイラ・バクティによってモークシャの境地を得た。
 不断の念は、他のほとんどすべての霊性の修行の実践の果報である。これは非常に効果的なメソッドであり、同時に最も難しいメソッドでもある。

 守銭奴は、他の勤めに従事していても、自分の富を忘れない。性欲の強い男は、自分の愛する女のことを忘れない。牛は草を食みながらも、仔牛のことを忘れない。そのように、世俗に生きる者も、自分の世俗の勤めを果たしながらも、神を思い続けねばならない。

 プラフラーダは、スマラナを実践した。彼は24時間ずっと、決して神を忘れることはなかった。彼は、邪悪な父から、考えうる限りの刑罰を受けた。しかし敬虔なプラフラーダは、すべての困難を乗り越え、主の最高の恩寵を獲得した。プラフラーダは神意識に没入したのだ。
 バクタたちは皆、以上のような境地を燃えるように熱望すべきである。

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