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バクティの精髄(4)

 「ヤットラ ヤットラ マノー ヤティ タットラ タットラ サマーダーヤハ(どの対象に心が向かっていようが、すべてがサマーディの経験となる。)」

 心が向かうところすべてが、サマーディの経験となる。なぜならば、心は現世的な喜びの対象を見い出すことはないからである。神は、宇宙の隅々にまで充満している。全世界は、神の栄光を身にまとっている。聖者と悪人、徳と罪、善と悪、人間と動物、すべては神の御姿である。どうして心が、それらを邪悪に扱うことができようか? そこで心はサマーディを経験するのである。心には意識がある。しかし、心は対象を持たない。それはサマーディである。サマーディとは、思考無き意識、対象無き智慧。これはパラー・バクティであり、ヴェーダーンタの悟りと同一のものである。ヴェーダーンタの悟りとパラー・バクティは、一つのものを二つの名前で呼んでいるだけで、同一のものなのだ。この二つのものの結果として、エゴ(心)は滅される。心は知覚の対象なしでは生きることができない。この上なく力強く、この上なく智慧に満ち、この上なく至福に満ちている神は、すべての大気、地上に遍在している。彼は地球であり、天界である。彼は父であり母であり、兄弟姉妹である。神は、すべての愛、渇望、欲望、野望の達成である。彼は、すべての心のヴリッティの停止である。彼は到達すべき理想である。

 外界の知覚は、すべてに遍在する神の存在に気付くときに死滅する。感覚的対象は、神の栄光へと変貌する。妻はもはや愛欲の対象ではなくなり、金は誰もが欲しがる所有物ではなくなる。すべては神であり、神以外の何ものでもない。すべては礼拝されるべきものとなるのだ。

 「ロバ、犬、チャンダーラは礼拝されるべきものである。なぜなら、すべては神なのだから。」

と、クリシュナはウッダヴァに言った。

 「サルヴァム カルヴィダム ブラフマー(すべてはまさにブラフマンである。)」

 これもまた同様である。そこに違いはないのだ。

 二種類のサマーディの描写が、シュリー・クリシュナのラーサ・リーラーの中に見い出される。まず最初に、ゴーピーたちが、すべてはクリシュナただお一人であると認識するとき。これは、サルヴィカルパ・サマーディと同一のものである。その次に、彼女たちが、自分たちでさえもクリシュナであったと気付いたとき。これはニルヴィカルパ・サマーディと同一のものである。そこにエゴの感覚はなくなる。
 シュリーマド・バーガヴァタは、バクタたちのバイブルである。そこには、さまざまな種類のラーサや、バクティを開発するさまざまなムードが描写されている。

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