「学びの基準」
◎学びの基準
はい、そして、「学びの基準は実際に心が転向することです」。
これはさっきから言ってることだね。つまり学び――つまり教えをわたしはどれだけ学びました。しかし、どれだけ学んだ基準ってどこにあるんだと。ね。
大学とかだったら分かりやすい。例えば、単位を取りましたとか。あるいは、試験に受かりました。これは一つの基準になるね。あるいは例えば、弁護士を目指してて、弁護士の司法試験に受かりました。これは、「ああ、あなたが学んだことは結果として現われましたね」。あるいはもうちょっと単純にいったら、「わたしは本を五冊読みました、十冊読みました、百冊読みました」。ね。もし数が基準になるんだったら、百冊読んだ人がすごいねってなるけど、でも、読んだだけで理解してないかもしれない。じゃあ、テストしましょうかと。テストにちゃんと受かりました。はい、これは基準になるんでしょうかと。一般の学問とかだったら、それは基準になるかもしれない。しかし、修行はそれは基準にならない。
つまり、いかに心が変わっているかなんです。基準はね。「あなたよく学びましたね」っていうことの、よく学んだかどうかの基準は、実際に心が変わっているか。ね(笑)。
記憶しているかでもないですよ。「はい、じゃあテストしましょう」と。「はい、これどうですか、これどうですか。はい、四念処言ってください。八正道言ってください」。ズバズバっと全部言うと。でも心が変わってなかったら、その人は学んだとはいえない。
逆に、あまり記憶力が良くないと。で、いろんなことを知らないと。しかし、わずかな教えではあるが、それで自分を変えよう変えようとずっと頑張ってきてて、以前の自分と今の自分が相当変わったと。この人は相当学びましたねっていうことになるんだね。これが学びの基準ってことです。
だから逆にいうと、そうなるようにしなきゃいけない。つまり、われわれが教えを学ぶってことは、単純に記憶として理解すればいいってことじゃなくて、それによっていかに自分の――最初から言ってるように、カルマとか、心の性向とかを変えていくかってことになる。