解説「実写版ラーマーヤナ 第21話」
解説「実写版ラーマーヤナ 第21話」
◎愛とダルマ
はい、またちょっとだけ今のラーマーヤナの話をすると、今回は非常に素晴らしい内容でしたが、このあいだ観た人はその続きとしてね、この間もちょっと言いましたが、究極の愛の権化といえるバラタ、そしてダルマつまり宇宙の真の法則を誠実に守り抜く、その象徴であるラーマ。この二人の――つまりダルマと愛の対決みたいな感じなわけですね。
具体的にいうと、父の遺言を、あるいは自分に与えられた使命というものを忠実に守り抜こうとするラーマと、それから、ラーマがいなければわれわれは生きていけないんだと。ラーマがいなければわれわれの国の民というのは、一秒たりとも心が休まらないと。ラーマこそがわれわれの王なんだと。だから戻ってきてほしいっていうバラタの愛ね。
バラタの愛っていうのは、前の方の物語でも出てきたように、例えば敬愛する信愛するラーマが裸足でジャングルを旅してると聞いたら、自分も裸足になると。あるいは逆立ちで行こうかっていう表現もされてたけど、しもべであるわたしがラーマ様より楽をするわけにはいかないと。あるいはラーマとシーターとラクシュマナが日々木の根っことか草とかを食べて、あるいは木の実とかを食べて生きてるって聞いたら、自分もそのようなね、お城の贅沢なものを食べることはできないと。ラーマに会うまでは何も食べないって誓ったりとかね。非常に純粋というか、子供のような無垢な、もうわたしにはラーマしかいないっていう究極の愛の塊みたいな人だったわけですね、バラタっていうのはね。
で、その強烈な思い――ここで「強烈」って言ってるのは、いわゆる利己心がない。あるいは計算がない。あるいは打算がないんですね。つまり、これによってわたしの何かが満たされるとか、あるいはこれによってわたしの何かが、例えば寂しさが満たされるとかね、あるいは自分の中の欲望の何かが満たされるとか、そういうのが一切ない。ただ純粋な愛のための愛っていうかな。これがバクティの理想なんだね。で、この境地と、それからひたすら自分の使命、あるいはダルマに則って自分がやらなきゃいけないことを、何の感情も抜きで、あるいはもちろん何の打算も抜きで、ただひたすらやると。――この道を行くラーマの、意見のぶつかり合いが起きたわけですね。
で、それで前回の話では、これも今連載している『ヨーガヴァシシュタ』っていう素晴らしい聖典の作者でもある大聖者ヴァシシュタですら、よく分かんなくなっちゃったっていうぐらい(笑)――つまり本当はヴァシシュタの立場から言えばですよ、ダルマがすべてだから、ラーマこそ正しいって本当は言いたいんだろうけど、バラタの愛があまりにも強烈なので、よく分かんなくなっちゃったと(笑)。どっちが正しいんだ、みたいになっちゃったと。で、そこで最終的な頼みの綱として、シーターのお父さんでもある、で、聖者でもある、ジャナカ王に判決がゆだねられるわけですね。
で、今日のシーンでもありましたが、おそらくこれはジャナカ王も自分で言ってたとおり、「神ですら決定できないのに、わたしが決定することができるわけがない」って言ってたわけだけど、でもシヴァ神にお祈りするって言ってね、あれはたぶん本当にシヴァ神が降りてきたんでしょう。いってみればシヴァ神がジャナカの体を借りて、最後の裁決を行なったと思うんだね。
で、その内容っていうのが、まず「バラタの愛の勝利である」と。
これはね、あの中でも言ってましたけども、バクティヨーガっていうのは、もともと実はそれをねらってるんです。それをねらってるっていうのは、つまりダルマっていうのは――つまり宇宙の法っていうのは、一切覆せないものなんだね。完全なるものであって。しかし信者の、つまり信仰者の――これは神に向かう場合ですけどね――神に向かってその純粋なる愛が、さっきのバラタみたいに、あまりにも強烈で、あまりにも無私であって、あまりにも熱意に満ちてた場合、神は、つまり至高者は、その自分で作ったダルマさえも無視せざるを得ないと。そのダルマを破壊して、つまり法を捻じ曲げちゃって、自分で信仰者の前に姿を現わすっていうんだね。これがバクティヨーガの一つのねらいなんです。つまり神さえも、「分かった、分かった」っていうぐらいの(笑)、変な話だけど、つまりダルマさえも破壊するぐらいの強烈な愛を、神に向けなきゃいけないんだね。
その面で、ジャナカ王はまずバラタに軍配をあげるわけですね。つまりこのダルマと愛のぶつかり合いにおいて、両方とも真実なんだけども、実は愛がものすごく強かった場合、愛はダルマを凌駕するんだと。ダルマというのは何によっても妨げられないが、唯一愛によってのみ破壊されるんだと。だから愛とダルマを比べたら愛が勝つんだよっていうことを、まず前提として言うわけですね。
そこでバラタとかみんなは「ああ、勝った!」と。「これでラーマ様が戻ってきてくださる!」って一瞬喜ぶわけだけど、そこでジャナカは「しかし……」と加えるわけですね。「愛というのは、無私でなければいけない」と。ね。つまり利己性っていうのがちょっとでも入ってはいけないと。で、そこでバラタのほんの小さな隙を突くわけだね。
それは何かっていうと、これはね、最初の方でラーマのお母さんであるカウサリヤーもその点が分かってたわけだけど、つまりカウサリヤーも当然お母さんだし、で、ラーマの大変な信望者でもあるから、ラーマに戻って来てほしいのは当たり前だったわけですね。当たり前だったけども、バラタに「じゃあ、あなたがラーマを戻してください」って言われたんだけど、「それはできない」と。「なぜならば、母親というのは利己的ではないんだ」と。
これは素晴らしい言葉だね。普通、母親って利己的ですけどね(笑)。つまり理想を言ってるわけだけど、本当は母親というのは利己的であってはいけない。まあ言い換えるならば、親子の愛であっても、何の愛であっても、愛というのは利己的であってはいけない。そこにエゴが入ってはいけない。
で、ここでいうエゴって言うのは、ここが難しいんだけど、さっき言ったように、さっきバラタの愛は最高に純粋ですよってわたし言いましたよね? で、ここでいう純粋っていうのは、さっきも言ったように、打算がない。つまりそこで何かを得ようと思ってなくて、ひたすら尽くしたいと。ひたすら愛のための愛っていうかな。それがバラタの愛だったんだね。でもここで一つだけ間違ってたのは、自分の考える「尽くす」ということと、この場合はラーマの意思が違う場合があるわけですね。そこが問題であって。つまり、これはカウサリヤーが言ってたように、「ラーマは――自分の息子でもあるわけだけど――ラーマは全智者なんですよ」と。つまりラーマの言葉はすべて真理なんだと。で、ジャナカが言ったように、「真の愛というのは――つまりあなたがラーマを本当に信望し、本当にしもべの道を歩きたいならば、自分が考える『わたしの愛です!』っていうのを押し付けるんじゃなくて、ラーマに聞け」と。ね。ラーマの意思は何かを聞けと。それに自分を完全にささげるっていうかな、完全に自分の考えを入れずに、そこに自分を捧げつくすことこそが、利己性を完全に除いた真の愛なんだよっていうわけだね。
◎ただ愛するお方のためだけに生きること
あと印象的だった言葉としては、「お前は何を捧げられるんだ」って言われて、バラタが「わたしは命を捧げられます」っていうわけだけど、ジャナカは笑ってね、「そんなの容易い」と。「それよりも、ただ愛する御方のためだけに生きること。これこそが真に難しい」と。これはまさに本当だと思うね。
わたしも、昔からっていうと変だけども、いつも言うように、ヨーガ修行を始めて、最初のころわたしは、クンダリニーヨーガとかジュニャーナヨーガとか、あるいはラージャヨーガとかそっちの方から入って、途中から菩薩行に目覚めた。ね。それからさらにバクティヨーガに目覚めていったわけだけども。例えばこの菩薩行、あるいはバクティヨーガの道を歩くときに、日々考えるわけですね。日々考えるっていうのは、例えばわたしはいつ――例えば菩薩行の場合はね、いつ衆生のために死のうかと。いつ衆生のために自分を犠牲にできるか、ということをよく考えると。あるいはバクティの場合は、いつ神の使命としてこの肉体を捨てられるだろうかと。まあだからここにはちょっと一種のヒロイズム的なものがあるんだね。ヒロイズム的なものっていうのは、まあ例えばちょっと漫画的なんだけどね、「みんなの犠牲になってわたしが命を捨てることで、パーッて世界が変わって、みんなが真理に目覚める!」みたいな、そういうのを妄想するっていうか(笑)、「そういう時がきたら、おれは絶対に肉体を捨てる!」みたいなね。あるいはそこまで行かなくても、例えば誰かの身代わりになってね、自分が死ぬことで、誰かが助かるとかね。そういう場面がきたら絶対に肉体を捨てるとか。よくそういうことを考えるわけだね。
しかし、ここでバラタも言ってたように、わたしもいろいろ考えたけども、結構簡単なんだね、肉体を捨てるっていうのは。もちろん全員簡単なわけじゃないよ。でもここにいる結構な人にとっては簡単でしょう。たぶんね、ここにいるほとんどっていうか何割かの人は、そうですね、ある場面になって、例えばそれによって誰かが救われるとか、あるいはそれは神の使命だとか、あるいは例えば師のためだとかいう場面だったら、まあ何割かの人はパッて捨てられると思います。っていうのは、一瞬だから、それは。一瞬「えいっ!」てやればいいから。ね(笑)。
でもですよ――じゃなくて、このまだいろんなけがれとかエゴがある自分を持ったままで、このいろんなことがある人生の中で、ただ神の愛、神の使命だけに則って生きることがいかに難しいかってことなんだね。そっちの方が全然難しいんですね。だから死ぬなんていうのは完全に逃げであって、簡単な話なんだね。
わたしも昔よく考えた。考えたっていうのは、例えばいろんな苦しいことがあったときとかにね、「ああ、この世は苦である」と。あるいは「生きていてもなんの意味もない」と。「これは死んだほうがいいんじゃないか」ってこともよく考えたけども、でもそれはやっぱり逃げっていうかな。自然に神の使命によって命が終わるのは、それはそれでいいんですけども。そうじゃなくて、自分の修行あるいは今生でなさなきゃいけない使命というのがあるとして、それを真正面から見据えて、逃げずに歩いていくことがいかに大変かっていうことですね。
それが神の愛っていうのに根ざしてる場合は、より重要なことであってね。わたしはただ神の愛、あるいは神の使命のために生きるんだと。
で、そこでなぜ苦しみが生じるかっていうと、自分のエゴもしくは自分が思ってる世界と、神の使命、あるいは神がわれわれを幸せにしてくれようとしてる道が、ちょっとズレがあるからです。ギャップがあるからなんだね。よって、それを自覚してっていうか、投げ出して、ひたすら神の愛、あるいは神の使命、あるいは神の意思というものに心を合わせていかなきゃいけないんだね。それこそが真に大変なことであって、価値あることであって、なさなければいけないことであると。で、それをジャナカ王はバラタに説くわけだね。
で、このバラタも素晴らしいのは、そこでハッとするわけです。ハッとして、「わたしは利己的でした」と。「あなたはわたしの愛の利己性のヴェールをはがしてくれました」って言うんだね。で、誰かも言ってたけど、「え? バラタ、ほとんど利己性ないじゃん」と、ね(笑)。バラタがもし「わたしの愛は利己的だった」って言ったら、われわれはどうなるんだって感じなんだけど(笑)。 あれほどの純粋な人でも、ほんの少しの勘違いがあったと。で、そこをつかれて、バラタは本当に謙虚に自分の間違いを認めるわけですね。「わたしは自分の栄光や自分の愛のことばかり考えていた」と。
ここら辺は本当に微妙なとこであってね――もう一回言いますよ。例えば、わたしは神が、あるいはラーマが大好きであると。ラーマのためだったらどうなってもかまわないと。で、そこで自分が考えた、例えばバラタの場合だったら、わたしの愛の表現としてラーマに戻ってきてもらうこと、ラーマを王位に就かせることこそが、わたしの人生の生きる意味なんだ、みたいな感じで、あるいはさっきも言ったように、ラーマがもし粗末な食事や粗末な衣服でそういう生活を送るならば、しもべであるわたしは、もっとそれより下の生活を送らなきゃいけないっていうような、理由なき献身みたいな気持ちがあるんですね。しかしそのベースはいいんですけども、そのあらわれとして、じゃあ何をすればいいのかっていう問題が、自分の観念に依り過ぎてたわけですね、バラタはね。
◎しもべのバクティ
いってみれば変な話ですよ、ラーマはアヨーディヤーに戻らなきゃいけないっていう強い観念があったんだね。しかしこの流れ全体を見れば分かるように、まあシーターとかは分かってるわけだけど、ラーマは森に行かなきゃいけなかった。あるいはシーターはラーヴァナにつかまらなきゃいけなかった。ね。それは全部決まってることだったんだね。で、その神の計画を遂行するためにラーマがあらわれたわけだから。それはバラタは分かってなかったわけですけども、もしバラタが本当の献身、本当の愛があるならば、まあ分からないまでも、ラーマに心合わせ、ラーマの本当に望むことを喜んで受け入れてたはずなんだね。
この辺は非常に微妙な問題です。つまり例えば本当の答えを言うならば、ラーマがもしですよ――最後はそうなったわけだけども――「お前、わたしがいない間、王国を守ってくれ」と言われたら、そこでですよ、「いや、ラーマ様がいないなんて!」じゃなくて、「わかりました」と。「その使命を百パーセント忠実に遂行しますから、心配なさらないでください」というのが必要なんだね。特にこのバラタっていうのは、バクティヨーガの世界でいうと、しもべの道、この代表みたいな人なわけですね。というよりも、このラーマーヤナ自体が、しもべ的なバクティをひたすら説いてる世界なんだね。
最近カイラスがラーマとかラーマーヤナとかの祝福がすごく強いような感じがするっていうのは前から言ってますけども、このしもべのバクティっていうのは、実際はね、いつも言ってるようにバクティっていうのはいろんなタイプのバクティがある。例えばゴーピーみたいなちょっと恋人的なバクティや、あるいは母親的なバクティ、あるいは逆に神を父や母とみるバクティとか、いろんなタイプのバクティがあるわけですけども、実際はすべてのベースとなるのは、この「しもべのバクティ」なんです。しもべ的な、純粋なる無垢の愛というよりも、純粋であって無垢であってかつ押し付ける愛ではなくて、神の意思の実行のためにわたしは存在してるんだっていう、完全に自分を捧げつくしたっていうかな、投げ出した愛ね。
ラーマも最後に、「愛とは、自己を完全に投げ出すことなんだよ」と。「捧げることなんだよ」ってことをおっしゃってましたけども。そういうスタンスね。これがすべてのバクティの根本になきゃいけないんです。これがしもべのバクティね。
で、まあそれ一本で行くんだったら、それはそれでしもべのバクティだし、その上にいろいろ乗っかってくるのが、他のタイプのバクティなんだね。
だから決して他の、例えばお母さんのようにとか恋人のようにとかいうのも、ただ現世のお母さんとか現世の恋人のような雰囲気でいていいわけはないから。ベースには今日のテーマで流れてたような、あるいはラーマーヤナのテーマで流れてるような、しもべの道なんだね。
まさにね、『神のしもべに』ね。『神のしもべに』の歌っていうのは、今日のテーマともとても合ってるし、あるいはラーマーヤナ全体ともとても合ってる歌だね、あれはね。まさに、押し付ける愛ではなくて、投げ出した愛っていうかな。ただ単純に純粋に、例えばあの歌詞でいうと、恩返しのためだけに生きると。あるいは帰依のためだけに生きると。あるいは神の意思の実践のためだけに生きると。それ以外の人生は少しも要りませんと。そういうようなベーシックな投げ出し感が必要なんだね。
で、もう一回言うけども、『ラーマーヤナ』やラーマの祝福が今強くなってるっていうのは、一つのそのようなしもべの道を、われわれに根付かせてくれる、あるいは教えてくれる神の祝福なのかなっていう感じはするね。これはどんな一般的な愛も、あるいは多くの巷のスピリチュアルや宗教も、ちょっと超えられない壁です、ここは。超えられないっていうか超えがたいっていうかな。愛とか口にする人は多いけども、ここで説かれているような、ここまでの投げ出した愛っていうのは、なかなか表現されない。
まあいつも言ってるけど、『日々修習する聖者の智慧Ⅱ』の『母なる神』ね。あれなんかもそうだね。あれなんかまさに百パーセント、百ゼロの投げ出しっていうか、エゴゼロでなければそれは愛とはいえない。あるいはエゴゼロでなければそれはバクティとはいえないっていう世界ですよね。それをわれわれは今、神からの道しるべとして突きつけられてるのかなっていう感じはするね。