「喜」
◎喜
はい。ちょっと話がずれましたが。ちょっと、ずーっと話し出すとね、この話はもう止まらないので、ちょっとこの辺で一回切って。ここで何か質問等ありますか。
(一同)・・・・・・。
特にない? ではもう少し行くと、さっきそのクンダリニーが頭に流入したとき、甘露が落ちるといいましたが、もう一つのこの時の現象として、非常に体が軽くなります。これは前から言っているこの、この辺(頭部)にあるウダーナ気といわれる気とも関係があると思うんだけれども、体がね、なんかフワーッと軽くなるんだね。で、なんていうかな、ま、さっきいったその、エネルギーがガーンって詰まって飛び上がるダルドリー・シッディってあったけど、この段階になるとそうじゃなくてね、なんか体が軽くなって浮いちゃうんです。体が軽くなって、で、ムドラーとかやるとガーッて気が上がって、そんな苦しくないんだけどもフワーッて体がね、ポンと浮いちゃうんです。これはちょっと高度なダルドリー・シッディ。
で、いわゆる仏典とかヨーガ経典に出てくる、自由に空を飛び回るとか、それはこの延長上にあるんだと思います。もちろん現代ではそれをできる人ってのはいないけども。実際にもっと我々のカルマがいい時代は、ここにこの気がグーっと集まって、体が軽くなって、空を自由に飛ぶ人とかいたんだろうと思います。現代ではやっぱカルマが悪いんだろう。肉体的カルマが悪いっていうか。実際に空飛んだ人って私は見たことないけども。空を飛んだような感覚にはなる、ここに気が上がると。あれ、空飛んでるのかなっていう錯覚に陥る。
はい、それからもう一つ、ここに気が入り始めると、仏教では「喜」、喜びって書いて「喜」っていうんだけど、ものすごい精神的に、なんていうかな、楽しくて嬉しくてしょうがない感じになる。もう、なんていうか、精神的悩みが何もなくなります。もちろんこれは一時的なものです。次の段階でまたいろいろ始まるんだけど。
とにかくここに気が集まってる時っていうのは、もう本当に嬉しいし肯定的だし、何の悲惨な考えもない。そういう段階になります。私はこの段階を経験してるときに、よくその時働いたりしてて、職場とかでいろんな嫌なこと、まあ客観的に見たら嫌なことがあるんだけど、たとえばほんとにバーッといろいろ嫌なこと言われたりするんだけど、超楽しかった、その時。なんかね。
だから自分でも変な感じがするんだね。「俺、変人か?」って感じするんだけど。いろんなもう嫌味とか言われたとしても、表面的なものじゃなくて、心から楽しい。何があっても。でもそれはね、悟りじゃない。悟りじゃないんだけど、なんかそういう段階なんだね。もう楽しくてしょうがない。いやあ、それがどうしたんですかと。もう嬉しいんですと。僕は嬉しいですよと。なんかそういう感じがある。それがこのクンダリニーがここに集まったときのもう一つの現象だね。
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