無我と慈悲
1.他者の幸福を願うこと。
2.他者の苦しみを救いたいと願うこと。
3.他者の善を喜ぶこと。
4.他者が自己に与えた苦痛には頓着しないこと。
(または、すべての他者を平等に見ること)
この四つは、まあ、4番目が派によって多少違うと思いますが、四無量といい、仏教発祥の考え方なのに「ヨーガ・スートラ」などにも載っていて興味深いですね。
さて、私が修行者としての立場から「仏陀は何を悟ったか」を類推するならば、やはり「無我と慈悲」だと思いますね。
慈悲というのはもっと耳障りのいい言葉では「愛」といってもいいんですが、恋人や家族への人間的な愛などではなく、全宇宙の全存在を認め、許し、受け入れる愛ですね。
無我というのはおそらく、多くの人が感じている無我の意味と、私が感じている無我というのはちょっと違っていて・・・我が無いというよりも、我の放棄によって真実が現われるという機能的説明というかな。
だからこの「無我」も「慈悲」も、悟りそのもというより、悟りというものに至る究極的に単純化されたポイントといってもいいかもしれませんが・・・
まとめると、我を放棄し、我を形成するすべての要素を破壊し、すべての他者に愛を発する。
そこには至福があり、安穏があり、悟りがあります。
その悟りの内容は、やはり言語化するには限界があるような気がします。
私の感覚では、修行や論理的分析の積み上げは悟りに必要ですが、その積み上げたその上に悟りがあるわけでは決してないということです。
はしごを一段一段上り、壁の向こうの「悟りの世界」を見るのですが、向こうの世界とそのはしごとは、何の関係もないでしょう(笑)。
はしごは悟りに必要なのですが、はしごの上に悟りがあるわけではないのです(笑)。
愛とか慈悲とかいうと、それは仏陀自身というよりも大乗仏教に入ってからの考え方ではないかと言われる方もいるかもしれません。確かにそういう考え方もあるでしょう。しかし私は原始仏教の教えの中にも、また仏陀ご自身の生き方の中にも、十分に、愛や慈悲の重要性のメッセージを、個人的には感じるのです。
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