世界を輝かせる修行者とは
原始仏典の「大ゴーシンガ・サーラ林経」より。
ゴーシンガと呼ばれるサーラ樹の林に、お釈迦様と、数名の高弟たちが滞在していました。
そして高弟たちの間で、このような話題が起こりました。
--「どのような修行者が、このゴーシンガのサーラ林を輝かすことができる修行者か?」
もちろん、ここにおいて、このゴーシンガのサーラ林というのはどうでもよくて、たまたま場所がそこだったということで、本質的な問題ではありません。だからもう少し普遍的な話で、どのような修行者が、その自分のいる周りの世界を輝かすことができるような修行者なのか、という話題だと考えていいでしょう。
これに対してまず、お釈迦様の侍者で、多聞第一と呼ばれたアーナンダが答えます。
「教えを多く聞き、聞いた教えを保持し、蓄積し、完全で清らかな梵行を明らかにします。このように、教えを多く聞き、正念し、熟知し、熟慮し、正しい見解によってよく通達しています。そして、出家修行者と在家信者に向けて、彼らの煩悩を根絶するために、完全で流暢な言葉で教えを説きます。このような修行者こそが、ゴーシンガのサーラ林を輝かせるのです。」
次に、瞑想第一と呼ばれたレーヴァタはこう答えます。
「一人で瞑想することを楽しみ、喜び、内心の寂静(サマタ)と正観(ヴィパッサナー)に専心する。このような修行者こそが、ゴーシンガのサーラ林を輝かせるのです。」
次に、天眼第一と呼ばれたアヌルッダはこう答えます。
「人間を超えた清らかな天眼によって、一千世界を見渡す。このような修行者こそが、ゴーシンガのサーラ林を輝かせるのです。」
次に、頭陀第一と呼ばれたマハーカッサパはこう答えます。
「自ら林に住み、林に住むことを称える。
自ら托鉢者であり、托鉢行を称える。
自ら糞掃衣(ゴミ捨て場から拾ってきた古布を縫い合わせて作った衣)をまとう者であり、糞掃衣を称える。
自ら三衣(出家修行者に許された衣)をまとい、三衣を称える。
自ら少欲であり、少欲を称える。
自ら足るを知る者であり、足るを知ることを称える。
自ら独居者であり、独居を称える。
自ら人と交わらず、人と交わらないことを称える。
自ら戒を守り、戒を守ることを称える。
自らサマーディに入り、サマーディを称える。
自ら智慧を具え、智慧を称える。
自ら解脱智見に到達し、解脱智見を称える。
このような修行者こそが、ゴーシンガのサーラ林を輝かせるのです。」
次に、神通第一と呼ばれたマハーモッガッラーナはこう答えます。
「教えについて、修行者同士で語り合う。互いに質問し合い、答え合って、途切れることがない、有益な教えの談話を行ないます。このような修行者こそが、ゴーシンガのサーラ林を輝かせるのです。」
次に、智慧第一と呼ばれたサーリプッタはこう答えます。
「自らの心に支配されず、自らの心を支配し、昼でも夜でも、どのような瞑想にも自在に望むだけ入ることができる。このような修行者こそが、ゴーシンガのサーラ林を輝かせるのです。」
このように、高弟たちが一通り自分の意見を述べた後、彼らは師であるお釈迦様のもとへ向かい、事の一部始終を話し、誰の見解が正しいか、とお釈迦様に質問します。
お釈迦様はそれに対してまず、「いずれも、各自の経験に基づいてよく語られている」と、高弟たち全ての見解を認めるのです。
そしてその上で、お釈迦様も自身の見解を語りだします。
さあ、ここまでの高弟たちの見解も、全て正しいものでした。そしてそれは、各自の修行者の経験から来る特長に基づいた、正しい見解でした。最後に、お釈迦様自身が語る見解はどのようなものでしょうか?--それは、次のようなものでした。
「蓮華座を組み、背筋を伸ばし、正念を面前において座り、『心が煩悩から解脱しないうちは、私はこの蓮華座を解かないぞ』と決意する。このような修行者こそが、ゴーシンガのサーラ林を輝かせるのです。」