最高の教え
バガヴァッド・ギーター 勉強会 第一回
「第2章」
2006・12
◎最高の教え
もともとインドには、ヴェーダっていう経典群があって、それが最高とされるわけだけど、時にはそのヴェーダ以上に尊重されるのが、このバガヴァッド・ギーター。だからヒンドゥー教の聖書みたいなものです。
バガヴァッド・ギーター自体は実際は、マハーバーラタっていうものすごい長い物語があって、その中の一部なんです。
マハーバーラタ自体は、いろんな複雑な話なんだけど、いろいろ物語があって、その中で、戦争が起きるわけだね。それは神の意思から来る戦争なんだけど。二つの国が戦争するわけですね。そのときに、主人公のアルジュナっていうクシャトリヤがいて、クリシュナ神――最初はクリシュナっていうただの人間として現れるんだけど、実はそれは神だったんですが――そのクリシュナがアルジュナの軍と、アルジュナの敵に対して、平等に加勢しようとするんだね。その加勢の内容は、どちらか一方には、クリシュナの軍勢を貸し出そうと。どちらか一方にはクリシュナ自身が参謀として就こうと。で、アルジュナはクリシュナをとったんです。つまり、その大量の軍勢は敵に回したんだけど、ただ一人のクリシュナはアルジュナが参謀としていただいたと。
で、戦争しようとする時に、最初のほうっていうのはアルジュナが怖気づくんです。怖気づくっていうか、――まあ、これは親族間の戦争でもあったので、「私は親族と戦争なんかしたくない」と。戦の間際にクリシュナに対して、「私はもう戦いません」と言うわけだけど。それに対してクリシュナがいろいろ説いてるんだね。その内容が、このバガヴァッド・ギーター。長大なマハーバーラタの中で、戦いに迷うアルジュナに対して、クリシュナが説いた部分の教えですね。
◎真髄の教え
で、これを、バガヴァッド・ギーターをどう読むかっていうのは、いろんな読み方がある。
例えば、実際に今出ている本とかでも、いろいろな解説があって。昔のインド人の学者とかもいろんな解説をしてて。まあ、はっきり言うと、いろんな角度から、いろんなタイプの解説をしている。
それのどれが正しいとも言えないんだけど――それは角度の違いでもあり、段階の違いでもあるから。だから今日の解説っていうのも、私の観点から解説をするけど、みなさんなりにまた全然違う観点で読んでもらってもいいと思います。
私の印象としては、このバガヴァッド・ギーターの内容っていうのは、ものすごく素晴らしい内容です。もう、なんていうか、ヨーガや仏教の真髄を説いているような内容です。
ただし、あまり――私も、あまりこの解説を積極的にしてなかったのは、真髄は素晴らしいんだけど、説明しづらいんです。
逆に、あの『入菩提行論』っていうのは、真髄も素晴らしいし、表現力も素晴らしい。『入菩提行論』って、本質的な真髄の部分と、実際的にどうしたらいいのかっていうのを分かりやすく、われわれが感動するような感じで展開されているんですね。私の印象だとね、バガヴァッド・ギーターっていうのは、本当の真髄の部分をストレートに説いてて。修行して、たぶんみなさんが修行が進むたびに、真意が違う形で分かってくる。例えば、これを最初読んだら、「なるほど、こういう意味で素晴らしい」と思ったのが、五年ぐらい修行してから読むと、「え?こういう意味だったの?」っていう深みのある経典です。それを「こうだよ」って言うのはなかなか難しい部分があって。でも読むにはすごくいい経典ですね。
◎純粋な真理を説く
このバガヴァッド・ギーター自体がちょっと長くて、さっき言ったように分かりにくい部分もあるので、今回はあくまでもわれわれのヨーガ修行に関係があるかな、というところから始めたいと思います。二章の途中からです。みなさんに配った分ですけども。
ここであの――もう一回言うけども、戦いを行なっているわけですね、戦争をしているわけです。戦争をしてて、そこで、現代的にいうと、「やはり戦争は良くない」と。「平和が大事だ」ってアルジュナが言うわけだけど、それでなぜか神であるクリシュナが「戦え」と。この考えっていうのもいろいろある。それはまあ、みなさんがそれぞれ考えたらいいと思うけども。まあ、結局神の――ここでは義務っていう訳し方をしているけど、義務っていうとちょっと堅いんだけど――神の使命として、神の意思として、自分の人生があって。それをエゴではなくて、あるいは自分の観念的善悪観ではなくて、いかに純粋に神の意思に則って生を全うするか。これが一つのバガヴァッド・ギーターの発想なんだね。これは非常にすばらしい真理なんだけど、現代日本人にはなかなか受け入れられがたい。非常に純粋な真理を説いてる。それは読み進めるうちに、なんとなく心にこう、入って来たらいいですね。
◎第一におかれるもの
【本文】
『幸と不幸、損と得、または勝敗のことを一切考えず、ただ義務なるが故に戦うならば、
決して君が罪を負うことにはならぬ。』
はい。これはいわゆるバクティ・ヨーガ的な――今言ったことと同じだけども、つまり――私がいつも引用するユクテスワの言葉で、『あるヨギの自叙伝』の言葉で素晴らしい言葉として、「神の考える知性というのは――あるいは愛というのは、人間の利己的知性を超えている」という言葉がある。
つまり、人間が考える善悪にしろ、あるいは良い悪いにしろ、「利己的知性」っていうんだけど――エゴに基づいた知性。われわれがそれを知性と呼んで、これは論理的にこうだから正しいとか、いろいろ言うわけだけど、土台にエゴがあるんです。エゴを土台として組み立てられた知性だから間違いなんだね。だからその、社会常識とか、そういうものと、仏教にしろヨーガにしろ、結局ぶつかるわけだけど。
ここにも出ていますが、お釈迦様の教えにもあるんですけども、お釈迦様の教えにはストレートにこういう部分がある。
「修行者にとっての善いこと、素晴らしいことは、世の中の人にとっての悪いことである。世の中の人にとっての悪いことは、修行者にとって善いことである。」
バガヴァッド・ギーターでも、ちょっと後の方で出てきますが、
「修行者にとっての昼は、世人にとっての夜であり、修行者にとっての夜は、世人にとっての昼である」
と。こういう表現がされている。
エゴに基づいた生き方と、真理を求めている生き方とは、かなり逆になる。まあ、逆かどうかは別にして、あるいは自分の判断は別にして、まず神の意思というか、自分に与えられた神の意思。あるいは本当に誠実に自分が神の意思の下に、どのように何をしなきゃいけないのか。これがもしはっきりしたならば、あとはもう私にはこの道しかないって思ったときに、
「いや、でもな、これこうなるとできないかもしれないな」
とか、
「これはちょっと社会的にどうかな」
とか、それは全部言い訳に過ぎないと。クリシュナから言わせると、
「それは君の臆病さをごまかしているだけだ」
という感じになるんだね。
だからこれは戦争がどうこうっていう話じゃなくて、戦争は一つの題材に過ぎないわけだけど。みなさんはだから、自分の人生において、何を第一として持ってくるか。それが神の意思かどうか。それが神の意思だと分かったら――こういう話すると、ちょっと危ない話になっちゃうけど――それがいかに社会的常識と外れてようが、あるいは自分が今まで学んできたものに外れてようが、関係ない。トップに置かれるのは、神の意思なんです。神の意思の下に、自分のやるべきことっていうのが、はっきり分かったら、もうそれを進むしかない。たとえエゴと違っていても。
例えば、自分の今生の使命は、がんがん修行して解脱することだ、と気づいてしまったら、もう他のことは捨てなければいけない(笑)。それは一つの例だけど。だからといって、みんなが同じわけじゃない。例えばここで、アルジュナはこの戦において戦えといわれるわけだけど、じゃあみんな戦ったらいいのか、っていうと、そうじゃない。一般的にはもちろん、殺生とか戦いとかって、否定される。でもアルジュナにとっては、少なくともこの場面においては、ここで戦うことが彼の使命だったんだね。だからそれは当然、人によって違ってくる。例えばそれは、今言ったみたいに、人生を修行に捧げるのが使命の人もいるだろうし。そうじゃない生き方をするのが使命の人もいるだろう。まあ、使命というか、段階というか。今生で本当になすべきこと。
逆にいうと、本当に今生でなすべきことが分かった人っていうのは、非常に幸せな人だと。多くの人はそれがわからない。
まず第一段階としてそれがわからない。
第二段階として、分かってしまったけどちょっと逃げに入ると。段階があるわけだけど。分かった段階でそれはとても幸せなことです。
で、修行っていうのは、このアルジュナみたいにクリシュナがそばにいてくれたら、それは幸せなことなんだけど、そういう人は普通いないから(笑)、修行して、自分の中の自分をごまかす傾向だとか、あるいは長年かけてこんがらがった自分の表層の意識とかをどんどん解いていくことによって、わかりやすくはなってくるよね。自分の本当の心とか、自分の本当の人生の方向性とかが、見えやすくなってくる。前までは、こうかなこうかなって考えてたのが、なんとなく輪郭が分かってくる。そういう雰囲気があると思いますね、ヨーガ修行っていうのは。
はい。ここのひとつの教訓としては、幸と不幸、損と徳、または勝敗のことは一切考えずに、われわれが日々、ただ、「これが神の意思だ」と、あるいは「仏陀の意思だ」と思えることを、ただ純粋にやる。それを日々心がけたらいい。これは私も日々、とても心がけてるし、Tさんもよく心がけてるけど、よく失敗して、「また損得を考えてしまった」とか、「未来の計画をしてしまった」とかいろいろ言うわけだけど(笑)。そういうことをやりながら、自分の中のそういう部分を形作っていく。そういう教訓になりますね。
◎神の意思――心の純粋さによって
はい。ここのところ何か質問ありますか?
(H)神の意思っていうのは、まあ、よくわからないんですが、修行をしていくと、どんどん場面場面でわかるようになるんですか?
そうだね。場面場面っていうか、場面場面で最初わかるようになって、で、それがいくつもいくつも連続すると、全体像がわかるようになる。「あ、自分はこういう方向なのかな」と。
まずは場面場面だね。それはね、本当に、心の純粋さの現われとしてわかるようになる。
ちょっとストレートに言っちゃうと、純粋だったらわかるんです。でも純粋じゃないからわからない。純粋じゃないっていうのは、ごまかそう、逃げよう、っていう修習が多すぎるんだね、小さい時から。もうそれで凝り固まっているから、わかんなくなってるんです。それがひとつひとつ修行で消えていくから、そうなると、本当にエゴを入れない状態で生きているうちに、「あ、これは神の意思だ」と。例えばいろいろな苦しいことがあっても、これはまさに神の意思だと思うようになります。で、現象がはっきりしてくる。もう、笑っちゃうくらいストレートに現象が――まあこれは私もよく言うけども、Tさんとかもそういうことあるけども――ここまでわかりやすくしてくれなくてもいいよっていうくらい、もう本当にここに神がいて、これでもかこれでもかってわれわれに指し示しているように、現象が動き出すんです。
そうなるとね、それを神の意思じゃないって言えなくなってくるんだね。それぐらいはっきりした現象が起きる。まあ、現象だけじゃなくて、精神的にもね。例えばそんなにはっきりした現象が起きてなくても、それがわかるようになってくる。そういうことが一つ一つ続くようになってくる。それは心がだいぶ純粋化された証拠だね。
ただ実際は、魔境に入らないように、例えば私とか、あと修行の先輩とかに、一応そういうことを聞いたほうがいいと思うね。「僕は神の意思としてこういうふうな声が聞こえてきたんですけど、どうでしょうか?」と(笑)。単なる魔境の場合もあるからね(笑)。
(一同笑)
だからね、よく霊能者とかの言うような、神の声が聞こえたとか、そういうレベルの話じゃないんです。それははっきり言って、低レベルな話で。もっと核心に迫ることなんだね。うん。それ以外にありえないっていうか。
でももちろんそれは間違っている場合もある。心にけがれが多い場合、自分の欲望とか願望とかがかなり加わる場合はあるけども。でもそれも修行の進み具合に応じてどんどん純粋化されていく。
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