061001勉強会より(1)
2006年10月1日 合宿修行における勉強会「質疑応答」より
◎良い瞑想と死後のために
はい、今日は勉強会の、特にテーマがないので、何にしましょうかねえ。……何か聞きたいこととかありますか?
(C)瞑想のテクニックとかじゃなくて、良い瞑想や死後のために、日々の生活の中で、私たちが修習して蓄積していかなきゃいけないものとは何でしょうか。
はい、瞑想、それから我々の死後の世界を乗り越えること、これに必要なものっていうのは、まず集中力。
それから、善いカルマ。善いカルマ、つまり逆に言うと、悪いカルマが少ないこと。
それから正しい知識。まあこれは教学といっていいね。
それから、修行の経験。
それから、さあT君、あと一つ。
(T)帰依。
そうだね。帰依の心。
はい、それで、この間はちょっと信について話したけど、じゃあ今日は瞑想についてこれを当てはめるとね、つまりまず、まあ結局は瞑想は集中力なんです。なんだかんだ言って。集中力が無いと、何もできません。
で、例えば「ヨーガ・スートラ」における、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディっていう、その瞑想の三段階があるんだけど、あれは単純に言って集中力の深さのプロセスです。だからヨーガ・スートラってはっきり言うと最後の段階っていうのは、ただいかに集中力が深いかだけに焦点を合わせている。
ただヨーガ・スートラの場合は第一番目と第二番目において禁戒・勧戒ってあって、つまりあの段階でもうすでに、徳をすでに積んで、悪業を滅してっていうことを、準備としてやらせているわけだね。で、その後、徹底的に集中力によって、悟りを得ると。で、その集中力がまず、根本にきます。
◎徳
で、徳とか悪業とかいうのは――当然その集中力っていうのは、まあ前にも言ったように、深く入る。つまりX軸とY軸の、横軸のようなものだから。徳が無く悪業に満ちた段階だったら、深いはいいが、暗くて汚い世界に入るんです。深い世界にもピンキリがあるわけだね。深けりゃいいってもんじゃないっていうか(笑)。よって、深くていい世界に入りたかったら、徳を積み、悪業を滅しっていう要素が必要になってくる。
ただ、これはこの間も言ったけども、いや、俺は、例えば菩薩になることは別にどうでもいいと。あるいは至福とか歓喜もどうでもいいと。智慧もどうでもいいと。とにかくこの世から離れてニルヴァーナに至りたいんだっていう人にとっては、集中力だけでもいいんです。つまりもう突き抜けちゃえばいいから。突き抜けたい人にとっては、徳とかも関係ないんです。
でもこの場合も、徳がないと、なんていうかな、あんまりいい瞑想はできないので、いろんな怖いものが襲ってきたりとか、いろんな悪いイメージ、あるいはいろんな雑念でいっぱいになったりとか。
でもそれでも集中力で突っ切ることはできるんです、やろうと思えば。
でもこの方法っていうのはあまり日本人には向かないね。なんていうか、本当に全ての情報から離れて、例えばヒマラヤとかに入って、一切誰とも会わないで、っていう状況で心を静めて突き抜けるんだったら大丈夫だけど。
そうじゃなくて、我々のようにいろんな情報の中でね、生きている人っていうのは、心の深い部分を徳によって安定させなきゃいけない。
例えば徳があると、集中力があるないに関わらず――はい、瞑想します。はい、瞑想しました。パーッと明るくなりましたと。あー、気持ちいいですねと。ね。あるいはいろんな悪いものっていうのはあんまり出てこない。この状態を作るには、徳があること、それから悪業がないっていうこと、これが必要になるね。
◎正しい知識
で、三番目に、正しい知識。これがちゃんと心に根付いていると、当然、瞑想っていうのは正しい方向に向かいます。
だから教えを学んで、しっかりそれを――まあ例えばね、仏教でいうと、第一段階の瞑想、これは有尋有伺(うじんうし)って言うんだけど、有尋有伺って何かというと、簡単にいうと、熟考と捨断の瞑想です。
熟考と捨断ってどういうことかというと、皆さんが今日やったような、例えば教えを学び、この教えはどういう意味があるのか、その深い意味はなんだろうか、それが熟考です。
そして捨断っていうのは、午前中の瞑想でやったみたいに、浮かんできたいろんな自分の心の汚れを、教えに基づいて熟考した、熟考の内容によって、自分の汚れを切り捨てていくんです。これが仏教の、お釈迦様の説く、最初の瞑想なんです。
だからその辺っていうのはあんまり、解明されていないけど、仏典をそのまま読むとそうなります。つまりもう一回言うと、教えを学び、深く考え、そして心の中の雑念を、その熟考した内容によってスパスパと切り捨てていく。非常にジュニャーナ・ヨーガ的だけどね。これによってサマーディを得るのが、第一段階だね。
だから正しい教えっていうのも必要だと。まあ、正しい教えの理解っていうかな。
◎修行経験
はい、そして四番目に修行経験です。
この修行経験っていうのはどういうことかっていうと、結局その、ちょっと軽い言い方をすれば、場数が必要なんだね。つまり何回か言っているけど、瞑想って例えば、深い瞑想に入ると、例えばまあ段階があるわけだけど、ちょっとある新しい段階に入った時って、怖い時とかあるんだね。うわ、なんだこれはと。それは悪い意味ではなくて、未知だから怖いんです。「うわー!」って、「なんだこの世界はー!」って入る時がある。
でもそれも、何回も行ってると、普通に慣れてくるっていうか(笑)。「まあ、これもあるよな」「ああ、これも知ってます」って感じね、慣れてくるんだね。そうすると、まあ、そんなところでつっかからなくてもよくなる。はい次、次、パッパッパって行けるわけだね。
だからそれは、やはり瞑想経験っていうのが必要になってくる。瞑想経験があれば、例えばどうでもいいような瞑想の世界に入った時に、全体像が分かっていれば、「あっ、これはもうどうでもいいですね」と。もっと利益のある世界に入らなきゃいけないっていうのがよく分かる。でも普段からあまり瞑想していないと、たまにいい瞑想に入った時に、どうでもいいようなところにバーって入ってね、「うん、これは価値がある」と考えてしまうかもしれない。だから経験っていうのが必要だね。
◎帰依の心
そしてその全てをひっくるめて、我々を守ってくれるというか、そして速やかに我々を導いてくれるものとして、まあ仏教でいうと三宝、ヨーガでいうとクリシュナやシヴァやヴィシュヌといった神に対する、帰依の心だね。バクティの心、これを磨くこと。
これは二重の意味でメリットがあります。まあ今言った通りだけど、一つは、悪しき道から我々を守ってくれる。で、もう一つは、最もスピーディに我々を引き上げてくれます。
結局ね、バクティの道っていうのは、ある意味ちょっとずるいっていうか、自分で山を登るんじゃなくて、どうかお願いしますと(笑)、引っ張ってくださいと(笑)、そういう発想なんだね。
でも、もちろんそれは、かなり実は大変っていうか、つまり引っ張ってくださいって手を差し伸べるってことはだよ、ここに別のものを持ってちゃ駄目なんです。つまり自分の今持っているものを全て手放して、さあ、引っ張ってください、ってやるんです。だからこれは口で言うほど簡単ではない。理論上は簡単なんだけどね。自分が今執着しているものを全部捨てて、私はいりませんと、私は神しかいりませんと、どうか引っ張ってください。これが完全にできたら、はい、スーっとこう救われると(笑)。
だから日本のね、南無阿弥陀仏の発想も同じなんです。ただ南無阿弥陀仏の欠点は、南無阿弥陀仏って言ってて、捨てられるのかと(笑)、そこにある。だからあれは、理論上は完璧なんです。完全に南無阿弥陀仏に心を合わせられれば、バクティ・ヨーガ的に、完全に阿弥陀浄土に行けるんです。しかし普通は無理だと。本当に信心がものすごくて、私、阿弥陀如来以外、人生何もいらないと。こういう人がいたらそりゃ悟るよ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……だけでもね。でも実際はそれは無理だと。
ただ、それはまあ、完璧とはいえないまでも、我々が普段からバクティ的な発想とか、バクティ的な試みをするっていうのは、すごく利益があるね。やっぱり修行っていうのは障害も多いし、落とし穴も多いので、やはりその、そういった三宝や神との命綱、命綱っていうのはしっかりつかんでおいた方がいい。そうすれば、自分がなんか魔境に入ったりとか、何か悪いカルマとかが出てきておかしくなった時でも、救ってもらえるというか、外れないというか。
だから普段から、小さなことも含めて、まあ例えば、いろんなものを供養する実践とか、あるいはそういった三宝や神に対して懺悔をする実践とか、そういった帰依の修行ね。まあ、五体投地ももちろんそうだけど。これはすごく、我々にとって重要な修行になりますね。
はい、だから今言った五つの項目をしっかりとやってると、やはり瞑想っていうのは進んでいくね。