yoga school kailas

「忘却の歌」

あなたはこの経典の観念的な意味は非常によくご存知でしょう。
しかしながら、真の精神的な意味を理解するには、
八つの世俗の欲望を放棄し、それらの首を切り落として、
自我を信じる幻影を滅却して、
サンサーラとニルヴァーナがひとつの味であることを悟って、
また、山の寂静の地での瞑想によって、
自我を征服することが必要です。

それをさしおいて、言葉を論じ、この後にはこれが来ると指摘しても、
その者が法を実践していないならば、全く意味をなしません。
そのような言葉の知識はわたしは何も学んでいません。
また仮にわたしがそれを知っていたとしても、
わたしはずっと昔にそれを忘れてしまいました。
なぜだかお話ししましょう。

わたしはマルパ・ロツァーワの面前で、自ら礼拝します。
わたしを祝福してくださり、論争から守ってくださいますように。

わがグルの祝福が、わたしの心に宿って以来、
わたしは決して、もろもろの気晴らしを求めて横道に逸れはしませんでした。

慈愛と哀れみについて瞑想したので、
自と他の区別を忘れました。

わがグルについて瞑想したので、
勢力と権力を有する者たちのことは忘れました。

わがイダムについて絶えず瞑想したので、
粗雑な感覚の世界のことは忘れました。

秘密の伝承の教えについて瞑想したので、
書かれ刷られた書物に語られているすべてのことは忘れました。

純粋な意識を保ち続けたので、
無智という幻影を忘れました。

生来のものとして三身を瞑想したので、
希望と恐怖の思想を忘れました。

一つのものとして、この生と来世について瞑想したので、
生と死の恐怖を忘れました。

独居の喜びを味わったので、
親戚や友人を楽しませなければならないという義務を忘れました。

自らの意識の流れの中に教えを吸収したので、
教義の論争に係わることは忘れました。

生じず、滅せず、とどまらないものについて瞑想したので、
慣習的な形態すべてを忘れました。

現象の認知はダルマカーヤであると瞑想したので、
心が作り出した瞑想はすべて忘れました。

自由にして変わることのない自然さにとどまったので、
偽善のやり方を忘れました。

身と心において謙虚に生きたので、
強者の自慢や不遜な態度を忘れました。

この身の内側に僧院をつくったので、
外側の僧院のことは忘れました。

言葉を超えたものの意味を知ったので、
言葉で遊ぶ方法は忘れました。

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