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あしたのジョー

 私が自主的に「少年ジャンプ」などの漫画を買うようになったのは小学校三年生くらいからだが、そのもっと前、小学校一年か二年くらいの時の誕生日に、なぜか父親が、年齢的に明らかに早すぎると思われる「あしたのジョー」の単行本を買ってくれたことがあった笑。

 その数年後に、今度は自主的にあしたのジョーの単行本を買い、全巻を読み終えた。私は十代の頃、けっこう漫画が好きだったが、その中でもこの「あしたのジョー」は、何本かの指には入る名作だと感じていた。

 「あしたのジョー」はもちろん一般的にも名作と認められているので、世代を超えてファンは多いと思うが、私があの作品に感じた魅力は、他の人とはちょっと違う部分だったかもしれない。たとえば私が「あしたのジョー」で一番の名シーンだと思うのは、カルロス・リベラとの死闘の後、顔を化け物のように腫らしたジョーが、こっそりと空港の陰でカルロスを見送るシーンなのだ。このシーンが一番好きだという人には、今までは会ったことがない笑。

 さて、今回書きたかったことはそういうことではなくて笑、「あしたのジョー」の最終回のラストシーンについて。

 知らない人のために書くと、ついに世界チャンピオンのホセ・メンドーサにジョーが挑戦するタイトルマッチがおこなわれる。チャンピオンは精密機械のようなテクニシャンで、ジョーは野性的な本能で戦う選手。ボクシングの実力は圧倒的にチャンピオンのほうが上で、ジョーは何度もダウンさせられるのだが、「まだ真っ白に燃え尽きていない」と言って、何度もジョーは立ち上がってくる。
 こうしてついに15ラウンドが終わり、判定でチャンピオンが勝つのだが、その最後のシーンで、ジョーが真っ白になって、ほほえんだ姿で描かれて終わるのだ。
 この終わり方には賛否両論があるようだが、私は子供心に、とても芸術的な、素晴らしい終わり方だと感じた。
 
 さて、そしてこの漫画の雑誌掲載時、そしてその後も、いや、もしかすると現代にいたるまで、「結局ジョーはあそこで死んだのか、生きているのか」ということが論争されているらしい。

 今日言いたかったのは、この部分です笑。
 つまりここにおいて、「ジョーは生きているのか死んだのか」という論争は、ナンセンスだということです。

 なぜなら、ジョーはもともと「あしたのジョー」という作品を構成する概念に過ぎず、もともと生命体ではないからです笑。

 それを言ってしまったら終わりだと言われるかもしれませんが笑、これは冗談でも言葉遊びでもなくて、真理の教えに関わる大事なポイントなんです。

 「あしたのジョー」は素晴らしい作品ですが、それがフィクションである以上、当然のことながら、「ジョー」という人物は実在しておらず、そしてあの第一話でジョーがドヤ街に登場したときから最終回で真っ白になるまでが「あしたのジョー」なわけですよね。繰り返しますが、「ジョー」とは「あしたのジョー」という作品を構成する概念の一つであり、よってジョーには過去も未来もなく(ジョー自体が独立して存在ていないので)、ジョーが死んだのか生きているのかという論争はナンセンスなのです。

 そして、ここまで書いたら私が何を言いたいかわかった人もいるかもしれませんが、かなり話は飛びますが笑、仏教やヨーガにおける空の教え、中道などの教えも、これと同じことをいわんとしているのです。
 つまりフィクションであり概念的イメージの集まりに過ぎない「この世」を構成する「私」や「私のもの」や「対象」や「世界そのもの」などに対して、我々はそれら構成概念の一つ一つに対して「ある」と考えて執着したり、「ない」と考えて執着したりするわけですが、「ある」も「ない」もナンセンスなのです。それはジョーが「生きている」というのも「死んでいる」というのもナンセンスであるのと同じです。

 これはよく、仏典などでは蜃気楼のたとえなどであらわされます。もともと蜃気楼自体に実体がないので、蜃気楼で生じる幻の街が「ある」というのも、近くに行ったら「なくなってしまった」というのも、どちらもナンセンスだということですね。

 そう、この教えは説明が難しいのですが、「それは間違いだ」というよりも「ナンセンスだ」といったほうがしっくり来るように思うので、今回のこの「あしたのジョー」のたとえがうまくはまるのではないかと思いついたのでした。

 ジョーが生きてるか死んでいるかというのはナンセンスですが、でも「あしたのジョー」という作品はあります。同様に、自我や世界が存在するかしないかというのもナンセンスな問題なのですが、「私と世界」という概念的な何かは、明らかに今ここにあるわけですね。
 だから仏教の空の教えというのは、虚無論ではありません。現実にあるこの目の前の日常に対しては、「六つのパーラミター」や「八正道」などの「正しい生き方」を規範として、立ち向かっていかなければなりません。しかしそれと同時に、この世が漫画のようなフィクションであるということにも気づかなければならないのです。
 そう、漫画の正体は、物理的には紙とインクに過ぎません。そこに人の概念が加わって漫画を漫画たらしめているわけですが、たとえば動物や虫にとってはそれはただの紙とインク以上のものではないでしょう。インドの牛や山羊にとってはそれはおいしい食べ物でしょう笑。
 

 
 ・・・さて、長くなってしまったので、そろそろ締めに入りましょう笑。
 ここまでは仏教理論を中心に書いてきましたが、ここからはバクティ・ヨーガの思想も含めて私なりにまとめますのでご了承ください。

 
 この我々の人生という漫画の作者は、本当は、至高なる神ご自身です。
 あなたはこの漫画がどういう漫画だと思いますか? この人生という漫画は、実は素晴らしい至福に満ちたストーリーなのです。 

 しかし私たちは漫画を見る眼がないがために笑、センスがないがために、心震える至福の物語を、苦しく悲しい悲劇として、あるいは程度の低い俗的な物語として受け取ってしまっています。

 よってまず我々が第一になすべきことは、作者である神の意図を正確に読み取ることなのです。

 ちょっと見方を変えてみてください。この物語の主人公はもともと「私」ではなくて神ご自身だということに気づいてください。全編を通じて、神の愛が表現されていないページは一コマもなく、神の至福が表現されていないコマは一コマもないということに気づいてください。

 漫画、あるいは小説や映画でもいいのですが、たとえば皆さんがとても感動して大好きな作品を、友人が全く違うふうに、下劣なかたちで理解していたらどうしますか笑? おそらく、そのすばらしさの真の意味を、こんこんと教えてあげたいと思うのではないでしょうか笑。

 特にバクティ・ヨーガや密教系の救済者は、そういう方が多いわけです笑。そしてこの方面での悟りを開いたとき、その人にとっては、この輪廻そのものが、世界そのものが、素晴らしい神の楽園に変わるでしょう。

 そしてもう一つ忘れてはならないのが、これは漫画、すなわち神のシナリオにより、紙とインクならぬ三つのグナによって作られた、概念以上の何ものでもないものであるということですね。

 この二つの悟りを得たならば、その人は何の執着もなく、「世界」という神のリーラー(漫画)を楽しめるようになるのです。

 ラーマクリシュナも言っているじゃないですか。悪役の登場やピンチなどもないと、物語はおもしろくならないんだよ、と笑。

 「『この世』や『私』に実体があるというのもないというのもナンセンスである」ということを心に刻みつつ、神の完璧な芸術作品であるこの人生を全力で生きることによって、その真の意味を十分に理解し、楽しんでください。

 少しだけ答えを言うと、世界には神の愛しかなく、あなたには神と衆生への愛しかないのです。

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