原始仏教の17段階の修行
原始仏典で説かれる17段階の修行を簡潔にまとめてみたいと思います。
出典はパーリ仏典中部経典第39経の「大アッサプラ経」です。
お釈迦様は弟子たちに、沙門(道の人、出家修行者)によってなされるべきもろもろのこととは何か、という説法を始めます。
そしてこの17段階の最後まで至った者こそ、沙門であり、ブラーフマナであり、ヴェーダを知る者であり、煩悩が消えたものであり、アラハト(阿羅漢)であるというのです。
1.慙愧
慙愧とは、自分と周りに対して、恥じる心を持つことです。
つまり、自分はまだまだである、私は何をしているのだろうか、もっと励まなければだめじゃないか、というように自分の中で謙虚に恥じ、自己を鼓舞するとともに、周りに対して、このような状態では修行者として恥ずかしい、正しく生きなければ、というように謙虚に恥じる心を持つわけです。
この慙愧の心から、不放逸、つまり怠けずにひたすら精進する心が生じます。
この慙愧の心を確定させることが、修行者のなすべき第一のことですが、これが十分になされたとしても、そこで終わりではなく、次にまたなすべきことがある、という感じで、順次進んでいきます。
2.身の行為の清浄
身体を使ってなすことにおいて清浄を守ることです。
そして、もし身の行為が清浄に保たれていたとしても、決して自分を持ち上げたり、他者を見下してはいけない、とも説かれています。
身の清浄については、伝統的に、
◎殺生・暴力など、他の生き物を害する行為をしない
◎盗みをしない
◎邪淫をしない
の三つですね。
邪淫をしないとは、出家修行者にとってはもちろん一切の性的行為をしないことであり、在家においては、浮気や不倫をしないということになります。
3.言葉の行為の清浄
これは伝統的には、
◎嘘をつかない
◎意味のない冗談などを言わない
◎悪口を言わない
◎両舌・陰口・中傷を言わない
この四つですね。
もちろん、これらをもっと積極的に捉え、真理を語る、真実を語る、慈愛の言葉を語る、などの実践も必要です。
4.心の行為の清浄
これは伝統的には、
◎貪りの心を持たない
◎憎しみの心を持たない
◎誤った見解を持たない
この三つになります。これらももっと積極的に、慈愛や慈悲の心を持ち、正しい見解を持つという実践も必要です。
5.生活の清浄
生活の清浄とは何か、経には具体的には書かれていませんので、私の見解を書きます。
身体・言葉・心の清浄というのは、あくまでも単発的というか狙いの定められた実践項目だと思います。しかしこの生活の清浄というのは、24時間、生活のあらゆる場面を通じて、あらゆる意味で真理から外れない、正しく清浄な生活をし続けるということではないかと思います。
6.感官の門の防護
眼・耳・鼻・舌・身体・心において、様々なものを見たり聞いたり感じたりしても、その外面や細部にとらわれないようにする。
これらの感覚器官を防護せずにいる者は、執着や憂いの原因となるような様々な悪しき不善の事柄が、それらの感覚器官を通じて入ってくるので、それらが入ってこないように、しっかりと感覚器官を防護する。
お釈迦様の時代は、インドはもっと宗教的で、煩悩的刺激もほとんどなかったと思いますが、今の日本は大変ですね。普通に生活しているだけで、様々な執着や憂いの原因となるような悪しき不善の事柄が、眼や耳その他から入ってきます。
単に感覚器官で淡々と感知するだけならいいのですが、たとえば町でかわいい娘を見かけたときに眼で追ってしまい、じっと見て、心がとらわれるとか、何かの情報を聞いたときに、その世界に心がとらわれて引きずり込まれていくとか、そういうことを戒めているわけですね。
ヨーガ・スートラでいうとこの部分は制感(プラティヤーハーラ)にあたるのかもしれませんね。
7.食の量を知る
注意深く観察しながら食事をとる。
決して楽しみのために食事をとるのではなく、あくまでもこの身体の維持のために、そして修行の手助けとしてのみ、食事をとる。
このようにして、もともとあった味覚のとらわれを断ち切り、また、新たな味覚のとらわれが生じないようにする。
8.不眠の努力
日中に経行(意識を集中して歩くこと)をすることによって、座って瞑想するときに、もろもろの妨げから心を清らかにする。
夜の初更に経行をすることによって、座って瞑想するときに、もろもろの妨げから心を清らかにする。
夜の中更に、右脇を下にして足の上に足を乗せて、念と正智をそなえて、目覚めることを考えて、獅子の眠りにつく。
夜の後更に起きて、経行(意識を集中して歩くこと)をすることによって、座って瞑想するときに、もろもろの妨げから心を清らかにする。
夜の初更・中更・後更というのは、夜を三分割してその最初と中間と最後の時間のことですね。
このころのインドと今の日本では事情が違うので一概に言えませんが、ためしに今の日本に当てはめてみると、まあ大体今の時期で、日の入り18時、日の出が5時とし、その間を夜と考えた場合、21時30分~1時30分ごろの間に寝て、1時30分~5時の間に起きなさい、ということですかね。
そして日中と、夜と、夜明け前に、時間をとって経行をすることで、意識をリフレッシュさせ、瞑想中に寝てしまったりしないようにする。
右脇を下にして寝るのは獅子の寝方といって、仏教で伝統的に推奨される寝方です。そして眠るときも、早く起きることを考えて、正しい思いを保ちながら眠りに入りなさいということですね。
9.念と正智を身につける
何をするにも正智をもって行ない、常に正しい念を持ちます。
この念と正智に関しては様々な解釈がありますが、正智とは、何をするにも常に心の覚醒を保ち続け、自己の身や言葉や心が真理から外れていないか、チェックし続けるのです。
念とは、何を念ずるのでしょうか? 「ウダーナヴァルガ」の念について書かれた経から少し引用してみましょう。
「ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もつねにブッダを念じている。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もつねに法を念じている。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もつねにサンガを念じている。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もつねに身体(の真相)を念じている。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も心の統一安定を念じている。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も戒めを念じている。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も捨て去ることを念じている。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も神々を念じている。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もその心は不傷害を楽しんでいる。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は怒り害しないことを楽しんでいる。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は昼も夜も(俗世からの)出難を楽しんでいる。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は瞑想を楽しんでいる。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は遠ざかり離れる孤独を楽しんでいる。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は空を楽しんでいる。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は無相を楽しんでいる。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は無所有を楽しんでいる。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は瞑想を楽しんでいる。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は安らぎを楽しんでいる。」
10.五つの障害の捨断
一人で座して足を組み、背筋を伸ばして座ります。
そして、心に付随する煩悩であり、智慧を弱め、瞑想の妨げとなる五項目の障害を、捨て断つ努力をします。
(1)貪欲を捨て、貪欲を去った心ですごして、貪欲から心を清浄にする。
(2)怒りを捨て、怒りを去った心ですごして、衆生を哀れみ、怒りや害意から心を清浄にする。
(3)沈うつと眠気を捨て、沈うつと眠気を去った心ですごして、光明の想を持ち、念と正智を持ち、沈うつと眠気から心を清浄にする。
(4)浮つきと後悔を捨て、浮つかずにすごして、心を静め、浮つきと後悔から心を清浄にする。
(5)真理への疑いを捨て、疑いを超越してすごして、善い事柄において疑いなく、真理への疑いから心を清浄にする。
11.第一禅定
五つの障害を捨断し、もろもろの欲望を離れ、不善の事柄を離れ、まだ思考を伴ってはいるけれど、遠離によって生じた喜と楽がある第一禅定を成就してとどまる。
遠離によって生じた喜と楽で、身体全体を満たす。
12.第二禅定
思考が滅し、心が清浄となり、サマーディによって生じた喜と楽がある第二禅定を成就してとどまる。
サマーディによって生じた喜と楽で、身体全体を満たす。
13.第三禅定
喜びに染まらないがゆえに、平静であり、正しい念と正智があり、楽を感受する第三禅定を成就してとどまる。
喜のない楽によって、身体全体を満たす。
14.第四禅定
楽と苦の両方を捨て、すでに喜びと憂いを滅したので、苦も楽もなく、心の平静より生じた念が最も清浄になっている第四禅定を成就してとどまる。
純粋清浄な心で、身体全体を満たす。
15.宿命智
過去世を思い出す智に心を傾注し、様々な過去世を思い出す。
16.死生智
生命あるものたちの死と再生についての智に心を傾注する。
清浄で人間を超えた天眼を使い、生命あるものたちが、それぞれのカルマに従って、死んでは再生するのを見る。
17.漏尽智
もろもろの煩悩を滅し尽くす智に心を傾注する。
苦・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽に赴く道を、如実に知る。
煩悩・煩悩の生起・煩悩の滅尽・煩悩の滅尽に赴く道を、如実に知る。
このように知り、このように見るとき、その心は欲・生存・無明の煩悩から解脱する。解脱したとき、解脱したという智が生じる。
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