因か条件か本質か
我々が心・言葉・身体によってなしたことが因となり、条件が成立することによって果報を生む。
これがカルマの法則です。
条件のことを縁ともいうので、因・縁・果ということですね。日本語でも因縁とか因果とかいいますね。
たとえば簡単にいうと、ある人が誰かに悪口を言った場合、自分もいつか悪口を言われるというカルマの因が生じます。
この因が成熟するには時間がかかります。
そして成熟した因が果として現象化するには、条件(縁)が必要です。
たとえばとても心やさしい人の中で生活していたら、『悪口を言われる』という因が、果として現れることができません。よってそのためにはここで『口の悪い人』の登場が必要なのです(笑)。そうして条件が整った段階で、因が果となり、実際に悪口を言われるという現象が起こります。
そしてこの法則を知らない人は、一生懸命、条件を整えることで、苦しみから逃れ、幸せを得ようとします。
たとえばこの例の場合でしたら、口の悪い人が登場したら、その人から逃げようとするかもしれません。
逃げることで、条件は整わなくなり、一時的に『悪口を言われる』という果報から逃げられるでしょう。
しかし因が消えたわけではなく、またその因はすでに成熟しているので、すぐにまた悪口を言われるような環境に放り込まれてしまうでしょう。
あるいは、そういう縁が生じていないのに無理に交際相手を求めたり、無理にお金や地位や物質を求めるのも同じです。
無理に『幸福の条件』を整えようとしているのです。
その人に幸福の因があれば、条件を整えることで、確かに幸福になるでしょう。
しかしこれには問題があります。それは未成熟の果物を無理やり収穫しているようなものだからです。
オカルティックな方法などで幸福を得ようとするのも問題があります。
ある種の精神集中や瞑想の技法を使えば、ある程度、願望をかなえることはできますが、これもまた無理やり条件を整えようとしているわけです。
たとえばここに『幸福の因の容器』があるとします。
普通、ここに蓄えられている幸福の因は、少ないものです。しかし条件を整えて幸福を得ようとするということは、ちょうど、ひしゃくやおたまなどを使って、この少ない幸福の因を汲み取ろうとするようなものです。それによって一時的には幸福になりますが、そのうち幸福の因は底をつき、その人は何をやってもうまくいかない人生になってしまいます。
そうではなくて、幸福の条件を無理やり調えるようなことはせずに、幸福の果が返ってくることを期待せずにただひたすら幸福の因(すなわち善の行為)を積み続けたらどうなるでしょうか?
それは器からあふれ出るようになるのです。その人は幸福になりたくなくても自然に幸福になってしまう人生になるでしょう。そしてお釈迦様は、そのように生きなさいとおっしゃっています。
つまり、条件ではなく因に着目すべきなのです。
条件を整えることで幸福になったり不幸を避けたりするのではなく、幸福の因を育て、不幸の因を滅することです。
具体的には、まず善を行うことで幸福の因を増やす。
無理やり幸福の条件を求めないことで、幸福の因の無理なロスを防ぐ。
悪を行わないことで、苦しみの因をこれ以上増やさない。
自然に生じた苦悩から逃げず、喜んで受け入れることで、苦しみの因を減らす。
これらを行なうなら、その人はある時期から、自然に幸福になり、なかなか不幸になれない人になるでしょう。
これがカルマヨーガの一つの道です。
これに『神の愛』という要素を加え、幸も不幸もすべては神の愛として自然に受け入れ、ただ神の意思に沿った生き方(善)を行ない、神の意思にそぐわない生き方(悪)を避ける。これがバクティ・ヨーガです。
そして最終的には、因も縁も果も超え、善も悪も超えた、本質的な至福と悟りの世界に入っていきます。
しかしそのためには、まずこの二元の世界で、善という光に満ち、悪という闇を滅した心の状態を作らないとだめなのです。
まあとにかく、現世的な幸福を求めるにしろ、至福と悟りを求めるにしろ、条件を無理に整えるのではなく、善因の増大と悪因の減少に心を配る。
成功にも失敗にもとらわれず、幸運にも不運にもとらわれず、淡々と全力でなすべきことをなす。
こういう生き方がいいと思います。