解説「クリシュナ物語」第一回(3)

するとしばらくして、計り知れない力を持つ神仙ナーラダが、カンサの住む宮殿を訪れ、カンサに次のように告げました。
「ナンダをはじめとするヴラジャの牛飼いたちとその妻たち、そしてヴァスデーヴァなどのヴリシュニ族、さらにデーヴァキーなどのヤドゥ族の女性たち、それらの一族や友人などのほとんどすべては、神々の生まれ変わりなのです!」
そしてさらにナーラダはカンサに、地球に重荷になった魔族をすべて滅ぼすという、神々の計画について知らせたのでした。
カンサは、自分の前世が強大な悪魔カーラネーミであり、そのとき至高者ヴィシュヌに殺され、今生カンサとして地上に生まれ変わったことを理解しました。そして再び今生、自分と魔族を滅ぼすためにやってきたという神々の生まれ変わりであるヤドゥ族に、深い敵意を抱きました。
さて、ナーラダのような偉大な神仙が、なぜカンサをそそのかすように、神々の計画を明かし、カンサの怒りに火をつけるようなことをしたのでしょうか?
それは、悪が広まれば広まるほど、至高者の地上への降誕も早まり、至高者による地上の救済の時期も早まるからなのです。
大いなる見地からいうならば、悪の心を持つ者は、至高者から悪魔としての役割を与えられて、主の遊戯(リーラー)に貢献させられているのです。
その大いなるリーラーを早く進めるために、ナーラダはカンサに神々の計画を告げ、カンサを怒らせ、彼が早く多くの悪業を積むように仕向けたのでした。
さて、ナーラダから神々の計画を聞き、さらに至高者ヴィシュヌ自身が、自分を殺すためにデーヴァキーから生まれることを知ったカンサは、ヴァスデーヴァとデーヴァキーを鉄の鎖で縛り、幽閉してしまいました。そしてデーヴァキーから息子が生まれるたびに、次々と殺害していったのでした。
さらに邪悪なカンサは、ヤドゥ族とボージャ族、アンダカ族の王であり、自分の父でもあるウグラセーナも牢獄に幽閉し、自らが邪悪な王となって、人々を支配するようになったのでした。
こうして悪の力は増大し、いよいよ至高者の降誕の日が近づいていったのです。
はい。ここは素晴らしく、なんていうかな、スケールが大きな話だね。ここら辺は皆さん、意味分かるかな?
ここはとても、非常に深い部分なんですが。つまりすべては、さっきも言ったように至高者のシナリオなんだね。で、そのシナリオっていうのは――まあこういう話を見ると、まさに善悪ってなんなんだろうということを考えざるを得ないわけだけど。つまり悪の存在があるわけだけど、これも必要なんだね。で、それは至高者によって設定されたものなんだと。で、例えばここに書いてあるのは、「悪の心を持つ者は、至高者から悪魔としての役割を与えられて、主の遊戯(リーラー)に貢献させられている」と。つまり、「おっ、おまえ性格悪いな」と(笑)。「おまえ、悪の心を持ってるな」と。「まさにうってつけである」と。「おまえがいないと人々は救済されない」と。つまり「おまえにその役割を与えよう」と。ね。そう言われてるのがこの悪魔たちなんだね。
つまり至高者から見ると、すべてはそういう意味では等価なんだね。――つまりそこでね、例えばですよ、M君とかが真理の戦士として登場し、悪魔をバーッてやっつけたとするよ(笑)。「さあ、地球に法が広まった!」――ってM君はこう酔ってるわけだけど、それも役割にすぎない。たまたまかっこいい役割を与えられただけで(笑)。で、そこで例えば、悪魔にやられてて、M君に救われた人がいたとしても、それも配役にすぎないんだね。うん。この辺を、皆さん頭を柔軟にして考えないと、すごく、なんていうかな、固い思考に陥ってしまう。だからそういう発想を常に持ってたらいいね。
これはさ、日常生活ではいっぱいそういうことあると思う。例えば、よく言われるのが忍辱の話でね、自分をいろいろ痛めつける人がいる。これは完全に役割なんだと。だってこういう人がいないと、自分は例えば自分の中のけがれに気付けないし、あるいは謙虚になれないし、あるいは苦しみをそうやって味わうことで、いろんな、教えへの信、求道心も高まるかもしれない。つまりそういうことをいろいろやってくれる役割として、この存在がいるって考えるんだね。
だってそういう存在がいないと、いつも言うけど、周り全員優しかったら修行進みません(笑)。何もストレスがないとね。うん。自分を苦しめてくれる人がいて、やっといろんな意味で自分が浄化されていく。その役割を買って出てくれる人がいるんだね。で、――ということは、この人は絶対悪ではないんです。役割にすぎないから。そういう発想で、なんていうかな、すべてをまあリーラーとして見る。
今言ったのは分かりやすい例だけど、そこまで分かりやすくなくても、あるいは自分が理解できなくても、なんとなくその考えをベースに置くといいんだね。この世はすべて、仏教的にいうとまあ「マンダラ」っていう表現になるんですが、この世は仏陀のマンダラだと。あるいはヒンドゥー教的にいうと、この世はすべて神のリーラーだと。全員神の――いつも言っているけど、原作・脚本・監督――神(笑)。あとキャスティングも神だね。原作・脚本・キャスティング・監督・プロデュース――全部神です(笑)。で、配役が与えられてるわけだね。で、自分もその配役の一人にすぎないんです。そういう柔軟な思考を持つと、例えば固定的な「あ、この人嫌い」とか、「この人なんでこんなんなんだ」っていう批判心とかは出てこなくなります。だってその人がいないと駄目なんですから。
なんていうかな、いろんなタイプの人がいるよね。で、つまりいろんなタイプの人がいるっていうのは、それが必要だからなんです。例えば自分を中心とするならば、自分の修行を進めるためのリーラー。あるいはその他の人も含めるならば、みんなでそれぞれのけがれを浄化していくための、このリーラーに必要な配役がいるんだね。こういう人が――例えばそうだな、ちょっと短気な怒りっぽい人も必要だし、あるいは誰にでも優しい人も必要だし、あるいはそうだな、ちょっと嫉妬深い人も必要だし。あるいはちょっと情緒的な人も必要だし。それぞれがそれぞれの役割を持っている。で、それぞれの中で自分の修行を進めていくわけだけど、非常に絶妙な形ですべてがこう、まあ計画されているわけだね。
で、ここでの話は、このカンサっていう魔王はその悪魔としての資質を逆に至高者に利用されて、つまりその一つのシナリオとしては、このカンサを中心とした魔族たちが徹底的な悪を地上で行ない、それによって至高者と神々がそれをひっくり返すと。つまりこれはね、非常に大ざっぱな言い方をすると、この世っていうのはすべて二元的な世界なので、強烈な善つまり強烈な光が登場するには、強烈な闇がまずなきゃいけないんだね。強烈な闇がガーッて登場して、やっと強烈な光が登場できると。つまり、平凡な時代には強烈な光は登場しない。変な言い方をすればね。だから相当――これはまあクリシュナの『バガヴァッド・ギーター』の言葉でありますが、「本当にこの地上が闇に覆われ、魔に覆われ、大変な苦悩の時代になったとき、それを修正するためにわたしは何度でも地上にやって来る」って、クリシュナが言っているんだね。つまり逆に言うと、それだけこの世がおかしくなってくれないと、やって来ないんです(笑)。
で、そのシナリオを進めたいんだけど、この前までの話で見てみると分かるけど、まあこの魔王カンサっていうのは、まあ前世でも魔王でクリシュナと戦ってね、ヴィシュヌ神と戦って、まあ破れている。多分ね、そのときにヴィシュヌに敗れたっていうことによって、あるいはそのときも配役だったんだろうけど、その役割を果たしたことによって、ちょっとは真理に近づいているんです。だからちょっとこれ見ると分かるけど、なんか優しいんです、このカンサって結構(笑)。ねえ、ヴァスデーヴァが子供持ってきたら、許しちゃうんだね、それを。「そいつはまあおれを殺さないからいいよ」と。ね。本当に邪悪なやつだったら、「来たか」という感じでそいつを殺してもいいんだろうけど、許しちゃってるんだね。ちょっとなんか生ぬるいんです(笑)。で、多分この神仙ナーラダ――この神仙ナーラダっていうのは、こういうインド神話によく出てくるね、有名な仙人なんですが。神仙ナーラダがちょっとこうイライラしたんだろうね、変な言い方すれば(笑)。「あのカンサ――魔王としての役割を発揮しなきゃいけないのに、なんか優しくなっている」と(笑)。「もっとあいつが暴れてくれないと、クリシュナの物語が始まらない」と。よって、そそのかしに行ったんです。「いやあ、あんた気付いてないでしょうが、あなたたちを殺すために神々はもう生まれ変わってきてるんですよ」と。で、「クリシュナももうすぐ生まれますよ」と。で、「あなたたちを破滅させますよ」と。で、もう怒りにこう火をつけたわけだね。で、それによってカンサは、もともと持っていた邪悪な心をその奮い起こし――ここでも書いてあるように、まあ自分の前世を思い出すわけだね。自分は前世でもヴィシュヌ神にやられていたと。で、今生もヴィシュヌ神と神々が自分を狙っていると。そうはさせないっていう感じで、ヴァースデーヴァとデーヴァキーを鉄の鎖で縛り幽閉し、そして実際に今度は子供たちをね、生まれるたびに殺していったわけですね。はい。
そしてそれだけではなくて、自分の父――まあこの時点では、その自分のお父さんがその地域の王様で、カンサは王子だったんだけど、早く自分が王になりたいから自分のお父さんを幽閉して、まあ権力を握ってね、邪悪な王として人々を支配するようになったと。
はい、このようにして、つまりナーラダ神仙の策略どおり、カンサは邪悪な心を増大させ、大変な悪を行なうようになり、それによってまあクリシュナ降誕の日が近づいていったっていうことですね。
だからこういう、なんていうかな、もう一回さっきの話を戻すけど、われわれもシナリオの一人の役割なんです。で、ここで問題なのはさ、シナリオの役割っていうことは、その役割はね、ちゃんと果たさなきゃいけないんだよ。どういうことかっていうと、例えばさ、そうだな、なんか悪いことしている人がいたとしたら、もし自分と関係がある人だとしたら、ちゃんとそれは言ってあげなきゃいけない。あるいは、あるときは厳しい言葉も使わなきゃいけないときもあるかもしれない。「あんた、そんなことやってたら駄目だよ」と。「本当にそれはあなたのためにならないよ」と。それはちゃんと言ってあげる。それはもう自分の役割だから。それは配役として自分がそういう立場なんだったら、それは言ってあげなきゃいけない。でもそれと同時に、つまりそれは――役ってそうでしょ? 役者ってそうでしょ。つまり役者として自分の役割を演じているんだけど、同時に「でも、これ劇なんだよな」って思ってるよね。例えば犯罪者の役の人がいてね、自分がその犯罪者を非難する役だったとしてね。「そんなことしたら駄目じゃないか!」って言ってても、その俳優さんをね……まあわたし俳優の名前知らないけども(笑)。俳優って誰かいるかな? 俳優(笑)。まあわたし、ちょっと例を出そうとすると、古い名前しか思い浮かばないから(笑)。俳優さんで最近の人、誰かいるかな。T君、誰か好きな俳優さんとかいる?
(T)えっ(笑)……ジャッキー・チェンとか?
ジャッキー・チェン(笑)。でもジャッキー・チェンは正義の役だもんなあ。あ、じゃあ……皆さん知っているかもしれないけど、サモハン・キンポーっていたよね(笑)?
(一同笑)
知らないか(笑)。サモハン・キンポーっていう、太ったジャッキー・チェンみたいなのがいたんだけど(笑)。じゃあそのサモハン・キンポーが悪いことをしてね、で、ジャッキー・チェンが「おまえら! 何やっているんだ!」って、バーッてこう叱るシーンがあったとしても、もうその役としてはなりきっているわけだけど、そのサモハン・キンポーのことを別に悪くは思ってないよね。「あ、こいつうまく役やってんな」っていうふうに半分思いながら、真剣に叱るわけですね。こういう発想が必要なんです。
例えばT君がなんか悪いことしたとするよ。で、M君が「駄目じゃないか!」とワーッて言うと。で、T君はこうシュンとして。で、M君はそう言いながら、つまり「あ、後輩をしっかりと、ちゃんと正してあげなきゃいけない」っていう気持ちを持ちながら、同時にもう一つの心で「でもこれも役割なんだよな」と。「今わたしは役割を演じているにすぎなくて、絶対的にT君がダメなやつってわけではないんだ」と。「今その役割を演じてくれてるだけ……」――まあ例えばさ、いろんな考え方があるよ。例えばM君がこれからどんどん成長していくために、例えば後輩をいろいろ指導する経験が必要なのかもしれない。その役割を今、T君が買って出てくれたのかもしれない――っていうふうに、例えば考えるんだね。それはだから――今のは一つの例だけども、ケースバイケースで、皆さんその二重の発想をいつも持ってください。現実的な目の前のことに対処する気持ちと、同時に「いや、でもすべて神のリーラーの役割にすぎないんだよ」と。
だからそういう意味で見るとね、世の中に絶対的な悪人なんて誰もいません。だから皆さんワイドショーとか見たら駄目ですよ(笑)。ワイドショーとか見ると例えばバーンってこう「なんとか事件の犯人」とか出て、もうみんなボロクソに言うわけです。コメンテーターとかね。「もう信じられません」と。「もう現代の教育は」とかね、こうワーッて言うわけだけど、わたし昔から、子供のときからそういうの見てて、逆になんていうかな、その犯人に同情するタイプだったんだね。つまりみんながワーッて言っているんだけど、「でもこいつ、いいやつかもよ」と(笑)。っていうのはさ、なんていうかな、まあ例えばイエス・キリストとかもね、「誰も罪人を責められる人はいない」って言っているけども、ちょっと変な話で言えばさ、われわれだってですよ、いつ何が転がってどうなって極悪犯になるか分かんないよ。うん。本当になんかのはずみで、いろんな精神的な葛藤がこう連続しちゃって、で、ついはずみで例えば家族を殺してしまうことだって、可能性としてはゼロではないんです。で、例えばですよ、それは、もしわれわれがもしそういうことやっちゃっとしたらですよ、多分、分かってほしいと思うよね。本当にしょうがなかったんだと。いや、それはしょうがないというのはもちろん駄目なんだけど、でも本当にそのときの自分としては、もうなんていうかな、もうしょうがなかったっていうか、まあつまり、なんていうかな、理があるんだね、その人にも。まあ「泥棒にも三分の理」とかよく言うけども、それなりの、やっぱりあるんです。
っていうのはさ、わたし小さいころから思ってたけど、誰もね、自分をですよ、悪くしたいって思う人はいないはずなんです。心から悪くしたいって思う人はね。誰だって幸福になりたいって思ってるし、誰だってうまくいきたいって思ってるし、あるいは誰だって、できるならば、まあ、なんていうかな、清らかでありたいと思っている。でも実際はそうではない。それはもうなんていうか、いろんなカルマとかによってそうなっているわけだけど、われわれだって何かを間違ったらそうなってしまう可能性もある。だからそれは、なんていうかな、仏教的な――哀れみの対象ではあるよ。ああ、本当に哀れだと。なんとか救われたらいいなっていう対象ではあるけども、非難の対象ではない。そういう人たちはね。だから絶対的な悪っていうその発想を、誰かに持ってはいけないんだね。仮に世界中の人から非難されるようなことをした人であったとしてもね、なんかあるんです。なんかあったのかもしれない。だって知らないんだから。知らないでしょ?
例えば最近の事件あんまり知らないけども、よく――まあ本当にもう猟奇的な殺人とかいっぱいあったけども、もうとんでもない、例えば一家惨殺とかね、やった人であっても、われわれはその人のことを全く知らないんです。本当に仲良くなってその人の人生を一から十まで全部聞いたり知ったりしたら、ちょっとはやっぱりね、理解ができるかもしれない。あ、そうだったんだと。いや、それはもちろんやったことは悪いことだけども、あなたを憎む気にはなれないっていう気持ちになるかもしれない。それは分かんないわけだからね。だからそういう心の、まあ広さというか余裕っていうか、そういうのは常に持ってないといけないね。そうじゃないと、何度も言うけども、その表面的な「この人は悪だ」「この人は批判の対象だ」――こういうのにガチガチに引っ掛かってしまうと、もう本当に、なんていうかな、自分がそのカルマの輪から抜け出せなくなるんだね。
だからそういう目でこの物語を見ると、すごく、われわれの人生にとって指針になるね。
はい。で、こうして至高者の誕生の日が近づいていきましたと。はい。そしていよいよ、お腹に宿るところですね。
