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解説「自己の明け渡しのヨーガ」(7)

◎明け渡しの果実

14.明け渡しをとおして、帰依者は永遠の本質に没入する。

15.あなたは自己を明け渡すことによってのみ、主の愛を勝ち取ることができる。

16.明け渡せば明け渡すほど、より多くの恩寵を得る。

17.恩寵の度合いは、明け渡しの度合いと比例する。

18.主に明け渡しても、あなたは何も失わない。主に明け渡すことにより、あなたは主と一つになる。あなたは主のすべてのアイシュワリヤ(すべてを絶対的に支配する力)を得るのである。そして完全の境地に到達する。

◎明け渡しのためのマントラ

19.「シュリー クリシュナ シャラナン ママ シュリー クリシュナ シャラナン ママ 」
   「ハリ シャラナン」
 「わたしは汝のもの、すべては汝のもの、すべては汝のご意思のままに、わが主よ」
――これらは、自己の明け渡しを達成させるためのマントラである。

20.明け渡しは、神に対する究極の愛および堅固な信から生まれる。

21.強烈なバクティは、神の恩寵によってのみ獲得することができる。

22.これがプラパッティ・ヨーガ(自己の明け渡しのヨーガ)である。

 はい。まず「明け渡しの果実」、つまり果報ね。結果、果報として説かれてるのが、「明け渡しをとおして、帰依者は永遠の本質に没入する。」
 はい。どんな修行でも永遠の本質、一切の本性を悟らなきゃいけないわけですけども、この明け渡しっていう道をとおして、簡潔、簡単に、効果的にそこに没入することができるんだと。

 「あなたは自己を明け渡すことによってのみ、主の愛を勝ち取ることができる。」

 これはこのままですね。もちろん主はわれわれを完璧に愛してくださってるわけですけども、われわれの側が実際はそれを見えなくさせてる、壁を作ってるだけなんだけど。われわれに完全な明け渡しの態度ができれば、十分にその主の愛の恩寵の光を受け取ることができると。

 「明け渡せば明け渡すほど、より多くの恩寵を得る。」

 はい。これはさっきも言ったけど、もちろん実際は明け渡しっていうのは百ゼロであって、ゼロか百なんだけど、でも実際にはグラデーションのようにだんだんだんわれわれは――つまりこれは、なんていうかな、エゴと帰依のバランスみたいなもので――つまりエゴと帰依っていうのは完全に相反するものですからね。相反するものだから、エゴが少なくなり、つまり明け渡しが多くなればなるほど、神への帰依の部分っていうのはどんどん増えていくわけですね。で、それが多くなればなるほど、明け渡しの部分が自分の中で多くなればなるほど、より多くの恩寵を得ますよと。
 逆に言えば、「わたしは」っていう感覚、あるいは「わたしの考え」とか、「わたしの観念」とか、そういうのを信じしがみつく力が強ければ強いほど恩寵は少ないという話だね。

 「主に明け渡しても、あなたは何も失わない。主に明け渡すことにより、あなたは主と一つになる。あなたは主のすべてのアイシュワリヤ(すべてを絶対的に支配する力)を得るのである。そして完全の境地に到達する。」

 はい。ただ、これはさっきも出てきたけど、ちょっと最初の方と矛盾するけどね。つまり「われは主なり」、つまり主と合一するみたいな意識を持っちゃいけないんだけど、ただ結果としてはそうなるってことだね。ただまあ、道として、技法としてはそういう心も捨てなきゃいけない。ただただ明け渡すと。でも一応客観的に結果を言うならば、この明け渡しによってわれわれは主と一つになるんだと。主のすべての力を得る。だから、明け渡すってなるともちろん、自分のものを明け渡すわけだから。うん。一文無し。つまり誰よりも貧しい、なんの所有もない者にわれわれはなるわけですけども、でもそのとき初めてわれわれは実はすべてを得るんだっていうことですね。
 つまりそれは、なんていうかな、この世界っていうのはそういう裏表の法則でできてる。うん。われわれがこの世のものに、あるいは二元的なものにしがみついてる以上、絶対的な本質的なものは得られませんよと。で、われわれが観念的に「わたし」とか「わたしのもの」って思ってるものを全部明け渡しちゃったときに初めて――まあ、それはもともとあったんですけど、もともとあったわれわれの本性、神の本性、それを悟りますよと。

 はい。で、「明け渡しのマントラ」って書いてあるけど、まあ、これはただ、シヴァーナンダが聖典からいくつか引用してるだけなんで、別にこれを唱えなきゃいけないってわけじゃないけどね。
 「シュリー クリシュナ シャラナン ママ」――これは、こういうキールタンありましたけど、「シャラナン」、つまり帰依処、避難処ですね。避難所。クリシュナを避難処にするとかね、ハリ、つまりヴィシュヌを避難処とするっていうマントラですけど。もちろん別に、ほかの神、あるいはグル、あるいはブッダでもいいので、皆さんが信じる好きなお姿をした至高者でかまわないので、それに常に明け渡すっていう態度を持つ。そしてまあ、必要ならばっていうかな、やりたいなら、それを言葉にして唱えると。

 「明け渡しは、神に対する究極の愛および堅固な信から生まれる。」

 はい。繰り返すけど、さっきも出てきたけども、単純に、合理的に仕事のように明け渡すんじゃなくて(笑)、同時にそこに究極の愛、堅固な信がなきゃいけないんだと。だからそれは逆に言うと、それをどんどん育てていかなきゃいけない。強力な、堅固な、一切のけがれが入らない信。そして、もう神以外何もいらないっていう強烈な愛。これを日々育てなきゃいけないわけですね。

 「強烈なバクティは、神の恩寵によってのみ獲得することができる。」

 はい。つまり、いろいろ言ってきたけど、結局は神の恩寵なんだっていう話なんですけどね(笑)。われわれはそのような、強烈な神への愛、あるいは「さあ、自分を捨てて明け渡すぞ」っていうことを努力しなきゃいけないんだけど、でも実際それが最終的に得られるかどうかは神の恩寵なんだと。
 だから、明け渡しっていうのはすべてを神に委ねることなんだけど、明け渡しできるかどうかも神のご意思だっていう発想なんだね。
 だからといって諦めちゃ駄目ですよ(笑)。あるいは言い訳しちゃ駄目だよ。うん。「なんでおまえ明け渡しできないんだ!」「神のご意思により」とか言って(笑)。それは駄目ですよ。ちゃんと努力して明け渡そうって思わなきゃいけないんだけど。でもこれも、だからちょっと、なんていうか、上の視点から見てるわけだね。客観的に見ると、それも含めて神の恩寵であると。でもわれわれは同時にそれを努力しなきゃいけない。
 
 はい。ね。「これがプラパッティ・ヨーガ(自己の明け渡しのヨーガ)である」と。

 はい。これでまあ、一つの作品が終わりましたが、もうちょっと時間あるんで、次に、この二つ目、「自己の明け渡しのヨーガⅡ」もちょっと見ていきましょう。

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