解説「菩薩の生き方」第三十回(8)

【本文】
「まさにこれをよりどころとして、私は将来ブッダとなることができる」と考え、あたかも(喉の渇いた人が冷たく清らかな水を楽しく)飲むように、常に目をもって衆生をまっすぐに見るべきである。
【解説】
これは非常に大乗仏教的な見解ですね。
つまり私たちがブッダになるためには、「衆生」が必要なのです。衆生との関係が必要なのです。
徳のある私が、衆生を救済してあげよう、という傲慢な心だけでは駄目だということですね。
つまり、自分よりもまだ智慧のない衆生のために、慈悲の修行を行なう。それによって自分はブッダに近づきます。ということは、その衆生の存在のおかげで、自分はブッダに近づいているということなんですね。
あるいはまた別の考えもありますね。それは自分と違う良い部分を持った衆生の良い点を称賛し、受け入れることで、自分の成長を促すことができます。衆生の欠点を見ることで、我が身を正すことができます。あるいは衆生が自分を苦しめてくれることで、自分の悪業が浄化されます。
このように、他の衆生こそ、自分をブッダに導いてくれる偉大な存在なのです。我々はそれをよりどころとして、ブッダとなるのです。だから、衆生を嫌悪したり避けたりするのではなく、自分にとって必要な存在として衆生を見なさいということですね。
ここは修行者が陥りやすい罠について釘をさしているような気がしますね。つまり修行していると、自分が清らかになっていくにしたがって、自分よりまだ目覚めていない多くの衆生に対する嫌悪感が出てくることがあります。しかしそれでは駄目なのです。それではブッダにはなれません。大乗仏教が提唱するブッダへの道は、衆生を愛し、衆生を受け入れ、あくまでも衆生との関係の中で、自己を磨いていくプロセスが必要だということですね。
「まさにこれをよりどころとして、私は将来ブッダとなることができる。」
つまり言い方を換えれば、わたしは衆生によってブッダになるんだと。衆生のおかげでブッダになれるんだと。そのような気持ちで、
「(喉の渇いた人が冷たく清らかな水を楽しく)飲むように、常に目をもって衆生をまっすぐに見るべきである。」
つまりだからこれも、他者っていうか全生命への、まあ全肯定感ですね。非常に肯定的な気持ちで見ると。しかもそれは、ここに書いてあるように、間違った、傲慢な哀れみとかではなくて――さっきの「Maitri」の歌にあったような感じだね。「あなたたちのおかげです」と。あなたたちのおかげで今のわたしがあって、そして将来わたしがもしブッダとか偉大な聖者とかになれるとしたら、それはみんなあなたたちのおかげなんだと。こういう素直な気持ちで衆生を見ると。
それにはここに書いてあるように――ここでは二つの考えが挙げられてるね。一つは――あのさ、ここで大乗仏教的って書いてあるのは、分かると思うけど、ヨーガでも仏教でもそうだけど、仏教の場合特に、まず小乗――大乗から見てね――小乗っていう道があると。この小乗の道は世間シャットアウト。つまり完全に世間を捨てて、ある場合は山にこもり、ある場合は山には籠もらなくても、もう世間をシャットアウトして、つまりもう世間は毒だと。徹底的に内にこもって、ヨーガでいうと真我、仏教でいうと仏性を悟るためにひたすら努力すると。この見地から言うと、繰り返すけど、世間は毒だと。なんで世間は毒かというと、つまり煩悩が刺激されるからね。もう心がグーッと内側にこもって寂静になっているのに、ちょっと買い物に横浜駅に行こうかなと思ったら、なんか可愛い子が歩いてきたと。悶々としてくると。ね。なんかラーメンのいい匂いがしてきたと。ね(笑)。「ああ、食べたいな」ってなってくると(笑)。まあ、それだけじゃなくてさまざまな、憎しみ、嫉妬、プライド、いろんな心をくすぐるものがいっぱいであると。
あるいはもちろんそういう情報だけじゃなくて、人と接した場合ね、当然接することでいろいろ起きますよね。なんか家で一人で瞑想したらいい気持ちだったんだけど、会社とか、あるいはこういう法友との場でもいいけども、行くと、なんか誰かに余計なことを言われてカチンときて、「なんなの、あの人」みたいな。あるいは逆に誰かに執着しちゃったりとか。で、ちょっと平安が崩れるわけだね。平安が崩れて、もう全然いい状態じゃなくなってしまうと。よって、そのような社会から離れて、山にこもったり、あるいは一人になってサマーディに入りましょうと。これがまあ小乗的発想ですね。
でも大乗仏教になってくると、そうじゃなくて、人々の中で修行しましょうと。あるいは、人々を逆に――つまり自分が人に影響されて駄目になるのは情けないと。人々を逆に救えるくらいの――つまり大乗っていうのはさ、「大きな乗り物」。つまり、衆生、多くの人を乗せてあっち側まで連れていけるくらいのでっかい船になりましょうと。
ちょうどこれは、いつも言っているように、ヴィヴェーカーナンダがラーマクリシュナに言われたことと同じだね。繰り返すけど、ヴィヴェーカーナンダが、ラーマクリシュナがもうちょっとで死んじゃうってときに、「まずい」と。「わたしはこんな偉大な師に巡り会ったのにまだ何も達成していない」と。それで焦って修行して、あるときラーマクリシュナのもとに行って、「師よ」と。「どうかわたしに、三日でも四日でも、自由にサマーディに入れるような力をお与えください!」って師ラーマクリシュナにお願いするんだね。そしたらラーマクリシュナは、逆にヴィヴェーカーナンダを叱って、「恥を知れ!」と。「おまえはまだそんなことを考えているのか」と。「わたしはおまえが、その木陰で多くの苦しむ人々が安らぐような巨大なバンヤン樹になると思っていた」と。「それなのにおまえはまだ自分のサマーディとかそんなことばっかり考えている」と。「恥を知れ!」みたいに言った話があって。で、そこでヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナの偉大な心を知って、まあ涙したっていう話がある。で、ラーマクリシュナが亡くなったあとに、ほかの弟子たちと違って、リーダーだったヴィヴェーカーナンダは、救済の方向に舵を切ったわけだね。単に「神よ!」っていう道ではなくて、インド人、あるいは西洋人も含めた世界を救おうと。そっちの方に舵を切った。で、それは個人的にラーマクリシュナから受けていたそのような救済の思想ね。
いつも言うけど、ヴィヴェーカーナンダの人生見ても、まさに菩薩道の見本みたいな感じです。現代ではだいぶ違ってきているかもしれないけどさ、仏教とヒンドゥー教って結構ケンカしている時期が長くて、特に仏教側の人たちってヒンドゥー教とかを結構受け入れない姿勢があるんだけどさ、柔軟な受け入れる姿勢で見たらですよ、例えばここに、大乗仏教のお坊さんでもなんでもいいけどいて、その人が柔軟な思想を持ってたら、「菩薩道とはこうですよ」と、偉大な菩薩の例としてヴィヴェーカーナンダ出すととてもいいです(笑)。偉大な菩薩の実例、ヴィヴェーカーナンダ。うん。まさに、師から与えられた使命としての、人々の救済のために人生を捧げたと。
はい、そのような生き方が大乗仏教の生き方であると。つまり、世を離れるじゃなくて世に入っていくと。ただもちろんそれは、ラーマクリシュナがいつも言うように――ラーマクリシュナの言葉を借りると、まずわれわれはバターにならなきゃいけないと。バターね。つまり牛乳を撹拌してバターになっちゃえば、水に入れてもなんの影響もないと。牛乳のままだと水と混ざっちゃうと。だからもちろん無防備で入っていっちゃ駄目なんだけど、つまりもちろん――皆さんの場合、具体的に言うとね、われわれはさ、いつも言うように、もう環境的にそれで行くしかない世界だからね。つまり、今この現代の日本に生まれたってこと自体が、社会の中で修行していくと。こういうセッティングがされていると。もちろんそうじゃなくて「いや、おれはヒマラヤに行きたいんだ」――そういう人がいるならそれはそれで別にかまわないけど。でもそういうカルマだったらきっとヒマラヤに生まれています。あるいはチベットとかに生まれてます。でもそうじゃない、この日本の忙しい社会の中で、ヨーガとか仏教の真理に出合いましたと。これはわれわれがこの社会の中で自分を鍛えていく、一つの使命がある。
その場合は、まずちゃんと修行時間を取ってね、あるいはこういう道場とかに来る時間を取って、ちゃんと自分を確定させる時間を取ると。そして社会に入っていくと。そういう感じだね。
