yoga school kailas

解説「安らぎを見つけるための三部作」第一回(6)

 はい、そして、人間の中で、「野蛮人にも生まれませんでした」。
 野蛮人――ここで言う野蛮人っていうのは、まあ文化的な意味での野蛮人、つまりまだ全然文明が発達してなくて――もちろんね、文明、現代的に言う文明が発達してなくても、その原始社会の中で真理っていうのをつかんでる民族はいるかもしれない。それはそれでもちろんいいんだけどね。そうじゃなくて、非常に動物的な、つまりそうだな、狩猟して多くの生き物を殺し、で、セックスをしまくると。あるいは例えば仲間同士でも殺し合ったりすると。で、それで、そういう非常になんていうか野蛮な秩序の中でその世界ができあがってるような――まあそういう世界が今の地球にあるか分からないけど、つまり全く、さあ、真理は何であろうかっていうようなことを、一応人間の体を持ってるんだけども探求できないような社会。これがここで言う「野蛮人」ですね。そういう世界にもわれわれは生まれなかったと。
 つまりわれわれが、例えば祈りによってね、「さあ、わたしは人間に生まれて修行したいんだ」って祈って人間に生まれたけども、なんか人食い人種のところに生まれちゃって、「あれ、こんなはずじゃなかったのにな」と。そんな境遇でもなかったと。

 はい。そして、「誤った見解を持つこともなく」。
 これもいろんなパターンがあるけど、例えばわれわれが、そうですね、まあ今ほとんど共産主義ってなくなってきたけども、共産主義社会に生まれて、で、例えば宗教は悪だって教えられて、あるいは唯物論的な思想を小さいころから叩き込まれて。心っていうのはただ脳の作りだした信号にすぎないんだよと。「いや、ブッダとか仏教なんてあれは嘘っぱちだよ」と。「悟りとかないんだよ」と。「人間死んだら終わりなんだよ」――こういうことを小さいころから徹底的に教え込まれて、社会もそうだと。こうなったらもう修行できないね。その人にいくら縁があってもなかなか難しい。縁があって仏教の本を手にすることがあったとしても、なんだこりゃ?ってなってしまう。
 しかしわれわれはそういうこともなかった。つまりかなり自由な思想を持てるこの日本という国に生まれ――まあ良し悪しなんだけどね。良し悪しっていうのは、日本人っていうのは、特に現代の日本人っていうのは、小さいころからいろんな情報を入れられて、で、固定されないで育ってきた。つまりいろんな情報を入れられたけど、どれが正しいとかよく分からない状態で、非常に混沌とした状態で育ってきてる。これは良し悪しです。良し悪しっていうのは、指針がないから、非常にあいまいな感じになってる。でも逆に、縁があれば逆にそのおかげで正しい道に入れるかもしれない。まあ良し悪しなんだけど、少なくとも誤った観念に固定されることはなかった。

 そして、「ブッダの教えがない世界に生まれるということもなかった」と。
 つまり時代によっては、もしくは国によっては、そこに全くブッダの教えがないっていうときもある。そんなときだったら、人間界に生まれてもしょうがないわけですね。人間界に生まれても、全く修行のきっかけすらない。あるいは正しい教え――正しいって一体何なのかっていうことすら分からない。しかしわれわれは生まれて、そこにブッダの教えはあったと。
 つまりこれだけの条件、これを八つの無暇の条件っていうわけですが、これを乗り越えたっていうことをしっかりとわれわれは肝に銘じなきゃいけない。
 つまりこういうことはね、このあとも同じようなのがバーッて続くんだけど、なんていうかな、それだけわれわれは恵まれてるんだっていうことを普段から考えなきゃいけないんだね。われわれは心が狭いので、すぐに「あ、自分は恵まれてない」って考えてしまう。あるいは自分は苦しいとか、あるいは自分はもっとこういういい目にあってもいいんじゃないかっていう傲慢な心に陥る。しかしよーくよーくこういうことを、この教えをしっかりとこう肝に銘ずるとね、「いや、わたしはなんてぜいたくなんだろう」と。つまりこれだけの条件を今得てることの奇跡っていうのは、ほんとに計り知れないと。
 そしていつも言うように、われわれの人生っていうのはいつ終わるか分からない。明日死ぬかもしれない。明日死ぬかもしれないっていう、全く一寸先は闇のその無常の世界において、今この瞬間、これだけの条件を与えられてる、こんな素晴らしいことはない。こんな、なんていうかな、ぜいたくはないっていうか。もう何の不満もない。この時点で。うち貧乏で不満なんですとか、うちのお父さん怒りっぽいから不満ですとか。例えば閻魔様がやってきてね、「さあおまえ、今生何か不満あるか?」と。「いや、閻魔様。うち貧乏過ぎますよ」と。あるいは「うちの家庭、なんか険悪なんですけど」とかね。あと「もうちょっと頭良く生んでほしかった」とかね。いろいろあるかもしれないけど、そんなものはどうでもいいんです。じゃなくて、今ここに書いてあるようなことをすべてクリアしてることの奇跡っていうかな。これを日ごろから自分に言い聞かせなきゃいけない。
 そうすると、日ごろの小さな不満とかなくなるよ。われわれは日ごろから小さな不満ばっかり持つじゃないですか。まあ何でも挙げたらキリがないけどさ。例えば家族との間で、「なんでお母さん、今日のおかず少ないの?」とかね。そんなのどうでもいいと(笑)。おかずが少なかろうが、あるいは例えば社会的にね、一般的にひどいと言われることに、自分がそういう目に遭ったとしても、それもどうでもいい。例えば誰かが自分を不当に殴ったり、あるいは例えば誰かにひき逃げされたり、あるいは当然自分が受けられるものを受けられなかったり。例えばですよ、親は自分を、子供を育てる義務があるとして。でも怠け者のお母さんで今日夕飯を作ってくれなかったと。でもそんなことはどうでもいいんです。そんなことはもうほんとに二の次のことであって。われわれがこの肉体、人間という肉体を受けて、修行できるさまざまな条件を備えたことに勝るラッキーなことはない。
 つまりわれわれは、超ラッキーなんです。もうこれ以上のものはないぐらいラッキーです。もう宝くじが当たったなんてこととは、もう全く比較にならないラッキーなんだね。それを常に考えなきゃいけない。われわれはものすごい幸運なんだと。
 例えば占いを見て、「さあ、僕の占いどうだろう」――まあ西洋占星術とかインド占星術とか、姓名判断とかいろいろあるけど――「あなたの人生は最悪です」と。「結婚もできず、人から恨まれ、駄目な人生でしょう」って書いてあったとしてもですよ、そんなことはどうでもいい。人間として生まれ、目の前に真理がある。これ以上のラッキーがありますかと。例え結婚できなかろうが、例え一生人から悪口を言われる人生であろうが、そんなものは小さなことなんだね。――っていうことを日々、心に言い聞かせなきゃいけない。
 で、こういうことをしっかり修習してると、まあ日ごろからあまり不満には陥らなくなるし、あるいはいろんな不満や心の動揺が生じても、こういうことを考えることによって抜け出せる。

 比較によって自分を解放する話って、よく仏教にある。例えば――まあちょっと正確な話じゃないけど、大ざっぱに言うけどね――前にも言ったと思いますが、お釈迦様の直弟子でプンナっていう人がいて。で、このプンナっていう人は、人を救いたいっていう思いがすごく強い人で。で、ある野蛮な国があって。それはもうほんとに人々がすごい暴力的な国があった。で、プンナはその暴力的な国の人々を救いたいと思って、お釈迦様に許可を得ようと思って来たんですね。「わたしはあの国に布教の旅に出たいと思います」と。「よろしいでしょうか?」と。で、お釈迦様がこう尋ねるわけです。
 「おお、プンナ。あの国は相当な野蛮な国と言われているけども、もしおまえが歩いてて布教しようと思っても、みんなからただ悪口を浴びせられるだけだったらどうするか?」と。そしたらプンナが言うには、「いやあ、彼らはわたしを悪口を言うだけで、殴ったりしないと。『なんていい人なんだろう』とわたしは思います」と。
 「じゃあ殴ってきたらどうするんだ?」と。「いやあ、彼らは殴ってはくるけど、わたしに大きな傷を負わせるわけではない」と。「『なんて優しい人なんだ』と思います」と。
 「じゃあ傷を負わせたらどうなんだ?」と。「いや、彼らはわたしに傷を負わせても、わたしを殺すことはない」と。「『なんて優しい人々なんだ』って思います」と。
 「じゃあ殺されたらどうするんだ?」と。「いや、彼らはわたしをこの肉体から解放してニルヴァーナに至らせてくれた。『なんて優しい人なんだ』と思います」と。
 で、それを聞いたお釈迦様は、「おお、おまえなら大丈夫だ。行け」って言って行かせたっていう話があるんだけど(笑)。
 つまりそれだけの、なんていうかな、こういうプンナみたいに広い心があると、すべてそういうふうに、つまり比較によってね、目の前のことが――つまりこのプンナっていう人はとても優しい人だったから、すべて、何をされても、「ああ、この人は優しいな」って考えられるぐらいの広い心があったわけですね。
 もう一つの同じような例えとして、これも有名な、のこぎりの例えっていうのがある。これはお釈迦様が怒りっぽい弟子たちに対して戒めた言葉なんだけど。まずね、いろんな例を挙げていくんだね。だんだんだんだんね。「おまえはこういうふうにやられても怒っちゃいけないよ」と。例えばいきなり人がやってきて悪口を言いましたと。こういうときも怒っちゃいけないぞと。こういう例をだんだんこうグレードアップしていくんです。「こうなっても怒っちゃいけないぞ」と。「こうなっても怒っちゃいけないぞ」と。で、最終的に出す例えが、「見知らぬ人が二人でやってきて、おまえを羽交い絞めにして、のこぎりで両腕を切ったとする」と。「それでも怒るな」と言うんだね。で、もし、見知らぬ人がやってきて羽交い絞めにされて両腕を切断されても、ですよ、怒らずに相手に愛を持って接せられるならば、そのほかのことはたいてい大丈夫でしょ? だからそれを普段から考えろと。つまり、わたしは仮に見知らぬ人に、わたしに何の悪いところもないのに両腕を切断されたとしても、怒らず相手を愛するぞと。こういうことを普段から考えてたら、例えば誰かがやってきて「バカ」とか言ったとしても、全くそんなことは関係ない。だってのこぎりで切られても愛するんだから。「バカ」って言われたぐらいは全く何の問題でもない。こういう話もあるね。
 まあちょっと話が広がっちゃったけど、もとに戻すと、同じように、われわれはなんてラッキーなんだと。人間として生まれ、これだけの条件が整い、今修行できる、教えを学べることの喜び。これを常に考えてると、それ以外の小さな、不満とか、あるいは「こうだからいいんだ」とか、「こうだから嫌なんだ」とかいうのは、どうでもよくなるんだね。だからそれは普段から考えるといいですね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする