解説「菩薩の生き方」第二十八回(5)

はい。で、次が、これもよく説明されるけども、今度は解剖学的な見方。今日の歌でもあったけども、つまり智慧の刃によって、つまり瞑想によって、刀を取って、この肉体を解剖してみなさいと。で、現代では学校でもそうだし普通の知識においても、解剖学的なっていうかな、つまりわれわれの肉体がどうなってるかっていうのはだいたい皆さん頭に入ってるでしょ。で、それをしっかりと、なんていうかな、反芻して、肉体っていうのはそういうものにすぎないんだというのを考えていく。これもよく仏教でやられる瞑想ですね。
はい。つまりそのように――まあ、あんまり時間がないんでこれも簡潔に言うけども、肉体の全体像をなんとなくあいまいにとらえてたら、「肉体=わたし」みたいな感覚になるんだけど、「そもそもあなたがいってる肉体ってなんのこと?」と。「どこからどこまで?」と。うん。つまり、ばらばらになるんです、肉体って。つまり骨はすべてもちろん関節によってはまってると。ばらばらにすれば、たくさんの骨に分かれるよね。で、それは腱によってつながれて、筋肉がつながれ、そしてそれらによって、なんというか、容れ物みたいなところに内臓が詰め込まれてると。で、全体が神経等でつながれ、で、そこに脂肪が詰め込まれ、で、その全体を皮膚で覆ってると。うん。だからもしばらばらに切り裂いてったら、もちろん、さまざまなパーツに分かれてしまうんだね。そのパーツのどれがあなたなんだと。ね。あるいは、どこに本質があるんだと。
つまり、昔のこの仏教っていうかインド人の考えとしては、支柱、つまりこの肉体の、なんていうか支柱ね、柱となってるのは骨ですよね。まず骨があると、骨を柱としていろいろ付けられてるっていうような発想がある。だからいろんなものを外していって骨があると。じゃあ骨を切ったらなんかあんのかと。まあ髄液があるけども(笑)、それしかないと。どこにも本質ないじゃないかという発想ね。心臓もただの臓器の一つにすぎない。脳もさ、もし割ってみたら、脳ってほんとに脳味噌っていうけど、もう、味噌みたいに、あるいは豆腐みたいにぐにゃぐにゃに柔らかいんですよね。そんなものもわれわれの本質であるわけがないと。さっき言ったようにその脳の電気信号等によって、心の一端を担ってはいるけども、でもそこにわれわれの、なんていうか魂の本質があるわけではない。
はい。このような解剖学的な見方をすると、肉体っていうのはいろんなパーツの集まりであって――これも何度か言ってるけどさ、「わたしが」とか言ったりとかするけども、例えば髪の毛を切ってね、パラッと落ちて、これを「わたし」って言わないですよね。うん。「わたしの髪の毛が落ちた」とは言うかもしれないけど、それを誰かが踏んでも「おれを踏むな!」とか言わないよね(笑)。これ、変な話で、つまり、ここで切られた段階で、言ってみればですよ、今まではこれを全部「わたし」って言ってましたよね。で、ここで切られて、「このわたし」と「このわたし」に分かれたわけだね。うん。で、こっちを「わたし」といってる、こっちはもう関係がないみたいな。じゃあ腕だったらどうなんだと。腕をここから切られたら、これも同じですよね。これもこっち側が「わたし」って言ってるだけであって。「じゃあそれなんなの?」と。「多い方なの?」って(笑)。多い方かどうかなんてよく分からない(笑)。日本でもっていうか世界でも、死っていうのは脳死なのか、あるいは心臓の停止なのかどっちかで議論があるって話があるけども、それもそうですよね。つまり生命の本質っていうのはどこにあるんだと。仮説として脳とか心臓とか言ってるだけであって、実際にはもちろん当たり前だけど、現代科学とか医学では分かっていない。生命の本質っていうのはね。
だからこのような解剖学的な見方をすると、この肉体は、繰り返すけど、いろんなパーツの集まりの物体っていうか、まさに精巧なる機械仕掛けの人形にすぎないと。
わたしもあんまり医学的なことは知らないけどさ、心臓も電気で動いてるんですよね。うん。その辺もなんか、まさに機械って感じですけど。電気信号によって心臓の鼓動がなされてるんですよね。まさに機械のような機械仕掛けの人形のようなもんであると。
で、もっと言うと、ここでは書いてないけど、これも現代科学がいろいろ言う前に、仏教とかヒンドゥー教では、肉体というものは微細なる原子でできてるって言い方してるんだね。うん。つまり現代的な、この物質そのものが、原子、あるいは素粒子の集まりにすぎないっていう考えも教えとして説かれてる。で、この話も何度もしてるけど、その原子で言った場合さ、原子と原子の間って隙間がものすごいんですよね。一説によると、原子を一円玉の大きさとしたら、原子と原子間の空間は、甲子園球場らしいです(笑)。空き過ぎだろと、隙間(笑)。
現代科学でもそうだけど、昔からインドでは、「体というものは原子の集まりにすぎないよ」って言い方をしてる。うん。こういう考え方をしても、やはり同じ結論に行き着く。うん。原子の集まりなんだから、そこにわたしの実体があるわけがないと。
この原子の集まりっていう考えは、また発展させると――これもよく言ってるけど、地球全体ももちろん原子でできてるよね。で、地球全体の原子の量っていうのは一定だといわれてる。一定っていうのはどういうことかっていうと、われわれは新陳代謝があるからさ、日々、新陳代謝で古い細胞が、ね、どんどん落ちてると。で、食べ物を食べて、それによってまあ新しい細胞ができていくと。でも全部それ、正体は原子ですよね。だから――これ、よく言ってる話だけどさ、例えばじゃあMさんの細胞が、どんどん垢とかフケで、あるいは糞尿とかで落ちて、長い時間の後にね、その辺の野菜を構成する原子になってるかもしれないよ。それをRさんが食べるかもしんない(笑)。それで肉体が形成されたと。これ、この間までMさんの肉体だった(笑)、あるいはT君の肉体だったとか(笑)。Kさんの足だった部分が今こう(笑)――なんか気持ち悪い話になってきた(笑)。
(一同笑)
でもそんだけ実体がないんだね。「わたし!」っていってるけど、そのわたしって言ってるこのこれ、全部原子ですよと。で、それ、しかも入れ替わってますよと。地球全体で入れ替わってますよと。
でもこれも、なんていうか、物質的な話だけども、物理的に、まあ平等心でつながるけどね。われわれにはだから、わたしもあなたも、肉体的な意味でも実は変わりないですよと。どっからどこまでがわたしなんだと。
はい。これも一つの見方ね。体というのはパーツの集まりにすぎない。あるいはもっと言えば原子の集まりにすぎない。どこに本質があるんだという話ですね。
-
前の記事
Relax
